鷲田さんに”場”について聞いてみる
会話の土俵づくりをしない、てつがくカフェ
水野:お会いできてすごく嬉しいのですが、緊張してしまって。学生のような気持ちです。僕が書いた『おもいでがまっている』という小説。この小説を書くきっかけとなったのが、鷲田先生の著書『「待つ」ということ』で。
鷲田:これ(『おもいでがまっている』)、泣いてしまって。
水野:本当ですか!
鷲田:この20年ぐらいで小説を読んで泣いたの、2回目。最後のほうなんかは泣きながら書いていたんじゃないですか? 最後の盛り上がりがすごくて、構成も考えに考えてあるなぁって。
水野:ありがとうございます。僕は鷲田先生の『「待つ」ということ』の核心部分には触れてないというか、「待つ」のいいところだけを切り取って書いてしまったかなという恐怖もあって、本をお送りするのには勇気が要ったのですが。でも、鷲田先生にお会いしたいなと思ってお手紙をお送りして、今回、このような機会をいただきました。
鷲田:”先生”はなしにしましょう。でも、よかった、これは。
鷲田清一(わしだ きよかず):1949年京都生まれ。 哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得。大阪大学文学部教授などを経て、大阪大学総長(2007~2011年)。京都市立芸術大学理事長・学長(2015~2019年)。現在はせんだいメディアテーク館長、サントリー文化財団副理事長。医療や介護、教育の現場などに哲学の思考をつなぐ臨床哲学を提唱・探求する。
水野:僕はいきものがかりという音楽グループで世に出たのですが、HIROBAというプロジェクトもしていまして。小説家や詩人、俳優や芸人など、音楽とは異なる分野で活躍される方とお話をしたり、ときには一緒にものをつくったりする活動をしています。人間が中心になるのではなく、“場”があって、そこでひとが出会って、何かができていくということを表現できないかなと。そこで、今まで「臨床哲学(※)」という言葉のもとに様々な活動をされ、「せんだいメディアテーク(※)」のような、ひとが出会う場所、ひとが一緒に考える場所をつくってこられた鷲田さんが、どのように場づくりをされてきたかというところからお話を伺えたらと思います。
※臨床哲学 社会のさまざまな問題発生の現場に赴き、そこで問題となっている事柄が何かを現場の人たちとともに考える「哲学」の活動。 ※せんだいメディアテーク 宮城県仙台市青葉区にあり、美術や映像文化の活動拠点であると同時に、すべての人々がさまざまなメディアを通じて自由に情報のやりとりができるようお手伝いする公共施設。仙台市民図書館、イベントスペース、ギャラリー、スタジオなどからなる。
水野:まず、最初の質問になるんですけど。とはいえ今、“場”はかなり強い力を持っていて。たとえば僕もSNSを使いますがTwitterだとTwitterらしい言葉遣いというものが存在する。その“場”の雰囲気がそのひとの在り方にも影響を及ぼしてしまう。それも“場”の難しさだと思います。みんなが自由に語れて、安心感を持って繋がれる“場”をつくれたらと僕は思っているんですが、そのためにはどうしたらいいのか。たとえばこのせんだいメディアテークや、様々な“場”をつくられるうえで鷲田さんはどういったところを大事にされるのでしょう。
鷲田:“場”って難しくて。今、おっしゃったように、すごくネガティブに、普段だったら抑制のスイッチがきいているところを外してしまうような、言葉としてはすごく荒れていく“場”もある。とくにネットのなかではそういう“場”って多いですよね。
一方で、読書会とかサロンみたいなところで、みんな集まったときに「最近どうしてる?」とか、「こないだの豪雨のとき大丈夫やった?」とか、雑談から始まるときがあるでしょう?でも、「じゃあ、そろそろ始めましょうか」と言ってスイッチが入った途端、みんな改まった喋り方になる。そんなときはうまく抑制がきいて、何でも言いたいことを言うんじゃなくて、自分の発言に対してどんな反応があるのか、落ち着いて確認してから話す。そのうちあまり饒舌にならずに、整理してから話せるようになる。そんなふうに会話のチャンネルを良いふうに変えてくれる“場”というのもあって。本当に“場”って、言葉の在りように対してものすごく影響を与えると思うんですよね。
水野:そのなかで具体的に心がけていらっしゃることってありますか?
鷲田:たとえば「てつがくカフェ(※)」の場合には、最初に約束をするんです。まず「名前は名乗らなくていいですよ」って。それから「どこに住んでいるか、どんな職業かなどは言わないでくださいね」って。それと「演説はしない」、「ひとの発言中は途中で遮らないで最後まで聞く」。あとは「喋りたくないひとは喋らなくていいですよ」って。5つぐらいをあらかじめ約束事としてスタートします。
・名前は名乗らなくていい ・職業や住んでいる場所について話さない ・演説はしない ・他のひとの発言は遮らず、最後まで聞く ・喋らなくてもいい
鷲田:それはひとの話をきちっと聞く練習でもあるんですけれど、もうひとつ、土俵づくりをしないためなんですね。日本の社会では、コミュニケーションとか対話っていうと、まず土俵づくりから始まるんですよ。共通点を探す。「今日はどちらからいらしたんですか?」「あぁ、うち近所です!」とかね。共通点があると安心するから、雑談で土俵をつくってから、やっと話を始めるじゃないですか。でも我々は、会話のチャンネルを変えるってことは、もう最初から、名前を持たず、属性をすべて外して、ひとりの市民として、個人として話し合いをしようと。だからこそ、普段と違うコミュニケーションができるんですよ、と。
※てつがくカフェ 街なかの喫茶店などで数人から数十人が集まって、テーマについてその場に居合わせたひとたちと話して、聴いて、考えるイベント。
”よそいきの言葉”が変えるもの
水野:その“名前を外す”とか、“属性を外す”ってことに、いきついたきっかけはなんなのでしょう。今日、僕も思わず「鷲田先生」とお呼びしてしまったんですけど。実は悩んでいたんですね、どうお呼びするか。それはやはりこれまで様々なことを考え、学んでこられた鷲田さんの背景を感じながら、ここに来てしまっている。一方で僕も僕で、いきものがかりとしての自分であることを意識しているんです。今日もカメラで撮ってもらうので、メイクなんかもしてもらって。表に出る人間としての意識がある。
鷲田:僕、今日メイクしてないけれど、失礼にあたりますか(笑)?
水野:いえいえ(笑)自分が、ある特定のイメージをもった“いきものがかりの水野良樹”であることが、歌が届くうえで邪魔になってしまうと感じる瞬間があって。名前を外すとか、属性を外すって、かなり強いことだと思うのですが、思いついたきっかけは何なのでしょう。
鷲田:もちろん名前を取るというのは、名前を言ってはいけないのではなしに、最初に自分が呼んでほしい名前を書いて。その場だけの名前をね。そういうことを考えたのは、大学の授業をしていると、それこそ学生はみんな「先生」って呼ぶでしょう。学生同士でも、男の子は「~くん」で、女の子は「~さん」で呼ぶ。
でも、大学でてつがくカフェをやり始めたときに「それを全部やめよう」って言ったんです。全部「~さん」で統一する。あと、教室って演説用の構造になっていますよね。一方が教壇に立って、学生さんたちにずーっと話す。それもやめて、ゆるい円形の座席に変えたんですよ。円形の輪に入りたくないひとは、外に出てもいいよって。そうしたらね、最初は学生たち、僕のことを名前で呼ぶのに抵抗があったんですけど、数回授業をやったらもう慣れるんです。廊下でも普通に「鷲田さん」と呼んでくれるようになった。それでね、やっぱり会話の質まで変わるんです。
鷲田:僕は大阪大学を辞めてから、しばらく家で私塾をやっていたことがあるんですね。中学生と高校生で1年以上不登校の経験がある子を「ここに来ない?」って誘ってきて。引きこもり経験がディープな子にとって、初対面の知らない者同士で話すことってすごく大変。でも、いろいろ工夫して、たとえばアーティストになってもらったりしてね。来る途中で自分の目についたもの、気になったものを映像で撮ってきてもらって、教室に着いたらちょっと説明をつけて、それをみんなに紹介するとか。あるいは、みんな自己紹介は苦手だから、自分のことを話すんじゃなくて、向かいのひとと30分くらい話して、相手のことを聞いて、終わったら相手の紹介をする。他己紹介。そんなことをいろいろやってました。
そんななかで、とくに“場”っておもしろいなと、劇的に変わるなと思った経験があって。いちばん劇的だったのは、親のインタビュー。ビデオを貸してあげて、家に帰ってお母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃんにカメラを持ってインタビューするんです。そうしたら、滅多にお父さんと喋らない女の子が、寝ているお父さんを叩き起こして、マイクを向けてね。「これからインタビューをします。私が学校へ行かなくなったとき、どんなふうに思いましたか?」って、関西弁でもない“よそいきの言葉”で、標準語で喋るんですよ。お父さん、ビックリして起きてきて、「あ、あのときはですねぇ…」って(笑)
水野:テレビのアナウンサーに答えるように(笑)
鷲田:そう。お父さんも喋りながら考えているんですよ。普段みたいに垂れ流しの言葉じゃなく、娘に対して何を言うべきか考えているのがその映像によく表れていて。打ち解けた言葉より、そういう改まった言葉のほうが意外ときっちりと自分の気持ちが出てきたりするのを体験して、おもしろいなぁ、“場”って大事なんだなぁと思いましたね。
水野:一旦、普段の親子の関係から、席を外したほうがいいってことなんですかね。
鷲田:そういうケースもあるんでしょうね。ちょっとビックリしました。
自分を漂わせているだけでいい
水野:娘という立場を離れて、“よそいきの言葉”をお父さんに向けたとき、親子の緊張関係とは別に、ふたりの間にあるものを眺めるような感覚で喋ることができるって、大きなヒントだと感じました。でも逆に、自分から離れること、それまで培ってきた歴史から離れることに、違和感や抵抗感を示す方はいらっしゃらないんですか?
鷲田:もちろんいます。てつがくカフェみたいな場に出てくるひとって、ふたつタイプがあって。ひとつは、自分が煮詰まっている。自分がばらけてしまって、自分自身や世の中のことがわからなくなっている。そういうタイプの方は、ちょっとでも変われるきっかけがほしくて来るんです。一度セッティングを変えて、他のひとの意見を聞いたら、追い詰められている気持ちがほぐれるかなって。もうひとつは、人前で演説して、「こうなんだ!」って断定調で喋るタイプの方。不安になっているときって、今の自分を説明する強固なストーリーがほしくなるから。つまり物語で鎧を着るようにして、演説する。そういうふたつのタイプがある気がします。
水野:そのふたつがどうほぐれていくんですか?
鷲田:やっぱりさっきのルールが大事で。「演説はしない」。できるだけ短い言葉で次のひとにバトンタッチする。そして「ひとの発言中は途中で遮らないで最後まで聞く」。そういう、感情的にならないためのルールを作っておくんです。自由に喋ってもらうんだけど、そのルールから外れると、ちょっと削ぎましょうねって。
水野:でも削ぐのも難しいですよね。それこそ、話を一瞬止めてしまうわけですもんね。
鷲田:でもね、これも2~3回参加したら「こういうものなんだ」ってみんな納得しますからね。「そのほうが話は先に進むんだなぁ」って。最初は初対面のひとばかりだから構えてしまいますけど。
水野:何回かやっていくとわかっていくっていうのはどういうことなんですかね。場の雰囲気を読んでいくんですかね。
鷲田:やっぱりラフになるからじゃないですか。つまり、ここでは無理やり結論を出さなくてもいい。普通の会議で結論が出なかったら、「今日の会議っていったい何だったんですか?」って文句を言われるけれど。てつがくカフェは、集ってひとが話すこと自体が目的ですから。
それから、話すって体力もいるじゃないですか。気合というかね。「今日はちょっと話すのはしんどいなぁ」ってときには、ずっと黙っていても誰からも咎められない。自分でもうまくまとまらない話をボソッと断片的に話しても聞いてくれる。あるいは同意してくれる。「ひょっとしたらこういうこと?」って聞いてくれると、「あぁ、そんなふうにも言えるかもしれません」って少しは話がかたちをとるようになっていく。ここでは自分を漂わせているだけでいい。楽でいられる。そういう経験をすると続くんですよね。
文・編集: 井出美緒、水野良樹 撮影:濱田英明 メイク:内藤歩
監修:HIROBA 協力:せんだいメディアテーク