龍谷大校友会「煩悩とクリエイティビティ」
龍谷大学校友会が主催するトークイベント「煩悩とクリエイティビティ」
https://ryukoku-koyukai.jp/bonno/
煩悩と創造性をテーマに、これからの時代を生きるための知恵を探ろうというリサーチプロジェクト。仏教で重要となる「煩悩」とは一般的に、心身を乱したり悩ませたりなど、負の効果をもたらすものと認識されている。しかし一方で、「煩悩」が悟りへの縁にもなるのではないかという視点もある。その「煩悩」をどう取り扱っていけばいいのか考えていく機会を作りたい。そんな思いのもと始まった取り組みとなっている。そして、このトークイベントでは、各界のクリエイターとともに、「煩悩」×「○○」というテーマで、私たちがどのようにこの世界をよりよく生きていくかを考えていく。第8回目の開催となる今回のゲストは、いきものがかりのリーダーであり、HIROBAを主宰する音楽家の水野良樹。
(本記事は龍谷大学校友会「煩悩とクリエイティビティ」にHIROBA水野良樹が登壇した模様をテキスト化したものです。)
「煩悩」の果てで、
創造物は自然の「似姿」になる。
水野:「煩悩とクリエイティビティ」とはなかなか大きなテーマで(笑)
仏教に疎く、「煩悩」の定義も正確にはわからない自分に、何が話せるのか。いろいろ考えたんですが、自分は音楽を作っていますから、そこから、このテーマに繋がるようなお話ができればと思います。
自分がやっていることをシンプルに説明します。僕という個人が“クリエイト=創作”という行為をしている。曲や歌を作っている。そして幸運なことに、デビューしてから多くの方に聴いていただける機会に恵まれ、顔も名前も知らない不特定多数の方に、自分の音楽を聴いてもらうとはどういうことなんだろう、ということをわりあい真剣に考えるようになりました。
この「大勢の方に曲を聴いてもらう」という事実は不思議なことで、なかなか簡単には受け止めきれないこともたくさん起きていきます。
曲を作るとき、僕は自宅の作業場に籠り、鍵盤の前に座り、ひとりで悶々としながら作ります。作っている最中、口ずさんでいるそのメロディは、その瞬間、世界で僕ひとりだけしか知りません。どんな曲も最初は、みなさんが部屋で独り言を呟いているのとまったく同じ状態で生まれていくです。
「ありがとう」も「YELL」も「じょいふる」も、最初はそうでした。
僕の部屋で、僕しか知らないメロディでした。最近では「ブルーバード」という楽曲が、国内のみならず全世界で聴かれているのですが。まさか、そんな状況になろうとは、つくっているときは想像もしていない。あの部屋で僕しか知らなかった曲が、世界中でおそらく数億人の方に聴かれているという事実は、僕にとって衝撃的です。
さらに、「聴いていただいた方の人生に深く関わってしまう」という経験も何度かあります。たとえば、ある場所で50代ぐらいの女性の方に突然、「水野さんですよね」と声をかけられて。「もし何かの偶然であなたに会えたら、感謝を伝えようとずっと思っていました。「ありがとう」という曲を作ってくれてありがとうございます」と、泣きながらおっしゃるんです。
お話を伺ってみると、長く連れ添ったパートナーの方がご病気を患われて、亡くなってしまったそうで。だけど、余命いくばくもない状態になったとき、病室で一緒にいきものがかりの曲を聴いてくださっていたと。光栄なことにおふたりともいきものがかりを好きでいてくれて。「この曲があったことで、大切なパートナーとの別れの時間を穏やかに過ごすことができました。お葬式でも出棺でも曲を流し、今でもこの曲を聴くとパートナーのことを思い出します」と伝えてくださって。嬉しくも、やはり非常に衝撃的で。
仮に、その女性と僕とが何でも話し合えるような友人関係だったとしても、大切なひとが亡くなるときの悲しみを励ますことは容易ではありません。「お前にこの気持ちがわかるのか」と言われたら、わからない。どんなに近しい関係でも、なかなか踏み込めないところだと思うんです。だけど、楽曲はそこを踏み込んでいく。僕個人ではたどり着けなかった、そのひとの人生の深いところに、曲はたどり着いてしまう。そういう経験をいくつか踏んでいくなかで、「歌というものは、すごいものなのではないか」と気づいていきました。ひとりの人間として生きる限界と、それを軽々と超えてしまう歌という存在について、意識するようになっていったんですね。
いきものがかりというと、わりと「お茶の間」的というか、「ポップな感じだよね」とか「みんなが聴くような感じだよね」とか言われることが多いのですが、僕自身はそれを意識していて。「万人受け」を目指しています。
ひとりでも多くの方に、いろんな世代の方に。もっと言えば、今生きている方だけではなく、僕が死んだあとに生まれてくる方たちにも気に入ってもらいたい。“万人”とは、時間軸も越えた、そういう範囲のことです。この姿勢に対していろんな方から、「すべてのひとから好かれるなんて不可能だ。万人受けなど目指したら、気を病む。やめなさい」と言われてきました。それらの指摘は正しく、僕も理解できるのですが、いかんせん意固地なところがありまして…笑。とにかく「すべての方に繋がるもの」はないだろうか、と。
水野良樹というひとりの人間が万人受けをすることはおそらく不可能ですし、それを目指すことは人生として不幸なことになるという実感はあります。
なぜ人間そのものの万人受けが難しいかというと、ひとりの個人には、縦軸と横軸、2つの限界があるのではないかと思うんですね。
縦軸とは「生まれてから死ぬまでの時間しか生きられない」ということ。今のテクノロジーでは、まだ誰ひとりとして、死に抗うことはできません。だから、僕が生まれる前に亡くなったひとには出会えないし、僕が死んだあとに生まれたひとにも出会えない。それは人間が抱えるひとつの大きな限界だと思います。そして横軸は「心の内はわかりあえない」ということです。今、みなさんがそれぞれ考えていることは僕にはわからない。逆に僕が今こうして緊張し、喋りながら考えていることもみなさんにはわからない。わかりあえないから言葉を使ったり、表現を使ったり、「わかりあえているという幻想」をうまく繋ぐために文化があるのだと思います。やはり基本的にはわかりあえない。
僕は、その2つの限界を超えるのが、歌ではないかと思っています。
究極的なたとえですが、僕を殺そうとしているひとを想定してみてください。家に帰ったら、玄関の前にナイフを握って、僕を待っているひとがいた。こちらに殺意を向けている。その場合、僕は、そのひとを愛することはできないと思います。なんなら僕も身を守るために戦うでしょう。これが僕という個人の人間の限界なわけですね。自分の生存まで度外視して、相手を愛するということは非常に困難です。でも面白いのが、もしかしたらそのひと、僕の歌だったら好きになってくれる可能性があるんですよね。
これは実際、似たような経験が結構ありまして。たとえばSNSで、あるアイドルを誹謗中傷する投稿をたまたま目にして。「ひどいことを書いているなぁ。なんてことを口にするんだろう」と思ったら、その前の投稿で同じ人が「カラオケでいきものがかりを歌ってきた」って書いているんですよ。うわー!と思いました。正直、僕はそのひとを好きになることはできないです。他人にあんな厳しい言葉を投げられるひとを好きにはなれない。正直言って、関わりたくない。ましてや、そのひとに喜んでもらおう、楽しませようなんて気持ちはまったく持てない。だけど僕の作った歌は、そのひとを楽しませることができている。それは、個人の限界を超えているなと。
煩悩や欲望を持ち、自分としてしか生きることができない、僕という人間の限界を、創造物は超えていくことがある。ひとりの人間では、すべてのひとを愛し、すべてのひとから愛されることは不可能だけれども、歌では、すべてを愛し、すべてから愛されることに近づけるかもしれない。「万人受け」が可能かもしれない。そういう気持ちで、創作をしています。
ただ、大事なことで、曲って、厳密には文字や音、記号の集合体でしかないと思うんです。そこに意味を見出しているのは、作り手であり、聴いているみなさんなんですよね。聴いているみなさんが「主人公」となり、曲に価値が与えられ、意味が見出されるわけです。
たとえば、ラブソングで「あなたが好きです」というフレーズがあるとします。この「あなた」に当てはまる存在は、ひとによって違いますよね。ひとそれぞれ、個別のものです。そんな、それぞれの「あなた」に曲が対応する。つまり、誰にとっても平等なものなんです。ひとりひとりが求めているものにフィットしていくのが創作物で、そこが強いところだと思います。
しかも、創作物自体は人間のように「死にたくない」などという意志は持っていません。消えることを創作物自体が恐れるなんてことはありません。だけど皆さんもご存知の通り、一千年前くらいの作品が今も残っていて、僕らはそれを読もうと思えば読むことができます。それは、その作品を残そうと思ったひとがいたからなんですよね。創作物自体は意志を持っていないけれど、そこに意味を見出すひとたちの意志の力によって残ることはできる。
また、創作物とは、花とか草木とか風とか、そういう事物に近いのかもしれないとも思うようになりました。
2011年に東日本大震災があったとき、ちょうど春でしたよね。僕は東京にいて、大きな被害を受けたわけじゃないけれど、ニュースから流れてくる映像を観て、非常に重い気分になって。こういう仕事をしていると、「何か元気づけることはできないか」とかおこがましいことを考えるのですが、何もできない。そうやって無力感に苛まれながら3月、4月と過ごしているなか、桜が咲いたんですよね。あっけないくらい普通に、桜が咲いたんです。
そのとき、桜ってすごいと思いました。桜はひとを励まそうと思って咲いてないんですよ。暖かくなったから、ただ当たり前に咲いている。でも桜って、日本の文化圏に生きているひとにとって、いろんな意味が加えられているから、ちょっと重要なものになってしまいますよね。見る方が勝手に季節を感じたり、儚さを感じたり、そういうことからいろんな文化が生まれていったり。でも、桜は「ただ咲いている」だけ。その「ただ咲いている」ということの、屈強さと優しさを感じました。
テレビを観ると、芸能人の方々がなんとか励まそうと、優しい言葉を伝えたりしている。だけど実際、被害に遭われている方はそれを聞いている場合じゃない。励ます言葉が、むしろ当事者を傷つけてしまう場面もたくさんある。「ただ咲いている」桜のほうが、ひとを励ましているんですよね。
そして、歌はこの桜のようになれるんじゃないかなと思ったんです。桜にも、自分で意味を見出すことができるから。たとえば、「お父さんが死んでしまって今は隣にいないけれど、去年はこの桜を一緒に見たな」とか。その思いはそのひとの心にしかない。誰にも打ち明けていない固有のもの。桜は個人のその内面に適切な距離感をとれてしまう。癒していく。そうやって誰かの内心に関わっていくことが、自然物にはできる。
僕が作っている創作物は、もちろん完全な自然物ではありません。僕の意図が入っているので。だけど、自然物に近づける可能性はあるんじゃないかなとは思うんです。僕という個人が持つ「煩悩」によって生まれ出される限界を、僕の創作物は超えていけるんじゃないか。憎み合ってしまうひととも。あるいは僕が死んだあとに生まれてくるひとたちとも。創作物を通じてわかりあえるんじゃないか。そんなことに怖さとロマンと希望を持ちながら、作っているというのが僕の現状です。
今日もおそらく多くの方は僕とは初対面ですよね。ひとに出会う数にも限りがある。でも、みなさんは僕がつくった曲を聞いたことはある。その事実が、本当は驚くべきことなんです。
物理的な限界を超えて、愛せないひとを愛し、癒せないひとを癒し、僕という人間では知り得ないみなさんの人生に繋がることができるのが、歌なのではないかと思います。
この気持ちは、すべて個人の欲望なんですよね。みなさんを愛したい、癒したい、人生に関わっていきたい、どれもエゴでしかない。ただ、その「煩悩」の果てで、創造物は自然の「似姿」になる気がして。それは僕が死んで、歌が詠み人知らずのような存在になったとき、本当の意味で叶うのかもしれませんが。そこに可能性を感じています。そんな思いで、死に抗いながら、こういう「万人受け」の歌を作っております。
龍谷大校友会「煩悩とクリエイティビティ」第8回
司会:田中友悟
登壇:野呂靖(龍谷大学心理学部准教授)
登壇:水野良樹
文・編集: 井出美緒 水野良樹
メイク:内藤歩
協力:龍谷大校友会
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