STORY with 小田和正

『YOU (with 小田和正)』が完成するまで

こちらはアーカイブ記事です。

どこから語ればいいのかわからない。語るだけ野暮だというのもあって、それはあのひとの背中を前にしたときにいつも思うことでもある。あのひとは多くを語らない。とくに作品について無駄なことをしゃべらない。大仰なストーリーを付け加えたり、冗長になりがちな技術論を語ったりもしない。美化をしない。言い訳をしない。ただ丁寧につくられた音楽がそこにあり、ただ丁寧に歌われた言葉がそこにある。

ひるがえって自分を見れば、まだ浅はかなこの若輩は、よく喋る。喋りすぎて、今回の制作のなかでも「そんなに理屈っぽくならなくていいから」と優しく、しかし鋭く、あの静かな声でたしなめられたことがあった。またぐだぐだと喋っているのかと怒られそうだけれど、あのひとはそもそも多くを語らないから、自分が語らないとこの歌がつくられていく過程が、そしてそのなかで生まれたいくつかの物語が、誰かに伝わっていかない。それは、少しさびしい。

「幸せな時間でしたね」

つい先日、あのイチロー選手とたった1試合ではあるけれど、チームメイトとして公式戦を戦った菊池雄星選手が、記者会見のなかでイチロー選手について訊かれたときに、長い沈黙のあと、やっと絞り出した一言が、それだった。とても素直でシンプルで、かつ重みのある素敵な一言だった。彼の熱い言葉を拝借するわけではないのだけれど、あのひとと向き合って歌をつくるという時間が、どういうものだったかと問われれば、自分も菊池選手のようにこみ上げる感情を喉元に感じながら「幸せな時間でしたね」と言うと思う。いや、制作が終わったときに、実際に言った。

-HIROBAの第一弾の音楽作品は、尊敬する小田和正さんとのコラボレーション楽曲です-

「昔はコラボレーションだなんて言わなかった。“一緒にやろう”だったよ」

そう言われたからといって、軽々しく、あのひとに声をかけられるわけもなく。勇気が必要なことだったし、念願が叶ったことでもありました。「YOU」そして「I」。2つの楽曲ができあがるまでのストーリーを、ここで話していきたいと思います。

「一緒に曲をつくってくれませんか」

2017年の冬のことだ。だから、もう1年半ほど前のことになる。毎年出演させてもらっているTBS「クリスマスの約束」の本番日。無事に収録が終わり、会場内で行われた小さな打ち上げ。乾杯を終え、出演者たちで記念写真。なごやかな空気のなか。そこで自分はひとりだけ、緊張でそわそわとしていた。まるで恋の告白を控える少年のように。別れ際だった。覚悟を抱いて、その背中にかけた、ひと声。

「一緒に曲をつくってくれませんか」

一瞬、驚いた顔をしたが、そのひとは即答した。詳しいことは、たずねなかった。ただ一言で返してくれた。

「おお、いいですよ」

シンガーソングライター。小田和正。恩人だ。いきものがかりが世に出た2006年の冬にデビュー曲「SAKURA」を番組で取り上げてもらって以来、後輩としていくつもの場面でその胸を借りてきた。たくさんの会話を交わす幸運にも恵まれた。音楽のことも、それ以外のことも。「クリスマスの約束」の打ち合わせやリハーサルは、小田さんの作業オフィスで行われることが多く、そこでは決まって夕飯に出前をとってくれる。中華の弁当を、いつも一緒に食べた。そこでの雑談は、とりとめもないものだけれど、だからこそ本音や裏話がこぼれたりもして、後輩にとっては先輩方の得難い話がたくさん聞ける。要さん、大橋さん、常田さん。委員会バンドの面々はいつも明るい。真剣な話のときもくだらない雑談のときも、小田さんは仲間がいることがどこか楽しそうだ。

委員会バンド:TBS「クリスマスの約束」での共演をきっかけに結成されたバンド。メンバーは小田和正、スターダスト☆レビュー根本要、スキマスイッチ大橋卓弥、常田真太郎、いきものがかり水野良樹。番組出演の他にも、各地のフェスなどへ出演したことがある。

自分はもう30代なかばを過ぎているが、現場では最年少で、いつも腹をすかせていると思うのか「ほら、食べなよ」と追加注文した餃子をよくすすめられる。またそれが、いつも美味い。その出前、ちょっと高価な中華屋さんのものであることは、ずいぶん前に気づいていた。普通の弁当屋の値段じゃない。

「さすが小田さんだな」

偉大さを変なところに感じて以前はご馳走になることに恐縮ばかりしていたのだが、最近ではもうすっかりメニューも覚えてしまって、遠慮もせずに頂くようになってしまっていて、いけない。後輩として、緊張していないとまでは言えない。小田さんを前にすると今だってピリッとするが、でも前よりは、だいぶ力を抜いて話をさせてもらえるようになっている。

「よし、そろそろ戻りますか」

小田さんの一声で空気が、ほど良く締まる。「ごちそうさまでした」とみんなが口々につぶやき、それぞれ席を立って、そしてまた練習に戻っていく。ギターを抱えて、歌い出せば、また全員が真剣になる。毎年、いつもの光景だ。これは、何気ない、ほんの一場面。出会って13年経って。こんな部活動のような空間を何度も、ともに過ごさせてもらってきた。

近いところで、その背中を見せてくれた。聞けば多くのことを教えてくれたし、話せば多くのことに耳を傾けてくれた。羅針盤を持たぬまま大海原に出てしまったような自分にとっては小田和正というひとの存在は、指針だ。憧れだ。希望だ。だが、言えなかった。いや、だからこそ、言えなかった。踏み越えてはいけないなと思っていた線がある。

一緒に曲をつくる。

自分の持ち場は、自分で責任を持って全うしなければならない。小田さんに「一緒に曲をつくってくれ」と頼むことは作品づくりという根幹において、小田さんに頼ることにならないか。そこを甘えてしまっては、小田さんに出会ってからこれまで経験させてもらってきたことを、むしろ反故にしてしまう気がする。そう思って、そのたぐいの話は一度も口にしたことがなかった。今まで膨大な時間を一緒に過ごさせてもらってきたけれど、勝手に、自分のなかでの禁として閉じていた。安易に踏み出してはならない。ゆえに、これを頼むことは自分にとって小さな出来事ではなかった。


「大切な話だなとは思ったよ」


レコーディングが終わったあと改めて二人で会話したときに、依頼を受けた日のことを振り返って小田さんはそう言った。小田さんはおそらく、多くを気づいていたのだと思う。

だからなのか、わからないが。

曲づくりを始めてから完成まで、はたして6カ月もかかってしまった制作期間のなかで、多くの言葉を交わしながらも、小田さんが水野に投げかけていたことは、このたったひとつの問いに集約されていた。


「理由は、なんだ?」


そもそも、ひとりで詞も曲も書いてきたお前が、一緒に曲をつくってくれと言ってくる理由はなんだ。これまでそれを口にしなかったお前が、踏み出した理由はなんだ。

「こっちは、(水野のなかにある)その“理由”に応えなきゃいけないんだからな」

その“理由”に答えていく旅が、「YOU」と「I」の曲づくりだったのかもしれない。

旗を降るひと

「理由は、なんだ」

問いに、問いで返すのは良くない。それはわかっているが、すべてはその問いから始まったから、ここでは、そこから書いていくしかない。なぜ、あのひとは変わっていったのだろう。

1982年、オフコースは日本武道館連続10日間公演という偉業を成し遂げた。翌年、初期からのメンバーだった鈴木康博さんが脱退したこともあって、このライブはいわゆる“伝説”として語られるようになる。その年に、自分は生まれている。時が経って、当時の小田さんの年齢を自分はもう越えた。以前、藤井フミヤさんが「クリスマスの約束」の収録現場で、はしゃぐ後輩たちに向かって言ったことがあった。

「お前らはさ、小田さんが優しくなってからしか知らないんだよ。昔の小田さん、めちゃくちゃ怖かったんだからな!」

もちろん冗談めかして話しているのだけれど、あながち大げさでもなく、おそらく今の自分と同じくらいの年齢のときの小田さんは、少なくとも近寄りやすい存在ではなかったはずだ。

「難攻不落の“オフコース城”なんて言われていたからな」

小田さん自身もそう当時を振り返って笑っていたが、テレビをはじめメディアに出ること自体が少なく、インタビューなどでもあまり多くを語らず、ブレイクしてからは他のアーティストと交わるようなことも少なかった。孤高という言葉のほうが似合っていたと思う。それが、やがて自身が矢面に立つかたちでテレビの音楽番組を持った。世代やジャンルを問わず、これだと思ったひとには敬意を素直に伝え、多くの仲間たちとつながるようになる。

オフコース時代は曲間のMCさえほとんどなかったクールなライブだったというが、現在のライブでは、少しでもお客さんに近いところで歌おうと、ステージにはいくつもの花道がついていて、それでは飽き足らず、客席まで降りていくこともしばしばで、ホールの隅から隅までを自分の足で駆け回る。マイクを手にして、歌いながら。

地方公演では、わざわざ現地に数日前に入り、周辺の観光スポットを事前にまわって映像を撮影する。「ご当地紀行」と呼ばれるその映像は、ライブで流される定番企画でわが町に本当にあの小田和正が来てくれたんだと、各地のファンはいつもそれを見て大いに喜ぶ。もちろん観客に媚びたりするようなことはしないが、「喜んでもらおう」という気持ちは全面に出ている演出、構成、ステージセット。

「あのひとたちがガッカリして帰ったら、それはつらいからね。せっかく来てくれたんだから、少しでもなにか持って帰らせたいなって、思うよね」


30代の頃の小田さんと、70代の今の小田さん。失礼を承知でいえば、真逆のようにも見えてしまう。変化はどこから生まれたのか。ずっとあのひとは、ひとりで旗を振っているように、見えた。

18年前。浪人生の頃、実家で見た第一回目の「クリスマスの約束」。同じ時代を生きてきて、音楽をつくり続けてきた者たちが互いに認め合い、敬意を伝え合う。そういう“場”をあのときの小田さんはつくろうとしていた。選んだ7つの名曲。7組のアーティストに小田さんは手紙を書いた。

しかし、ゲストは誰ひとり来なかった。

想いが伝わらなかったわけではない。そのとき手紙を受け取ったアーティストたちは、それぞれの言葉で小田さんに返事を戻し、その想いに応えた。のちに、出演を果たしたひともいた。もとより誰も来なくても、その覚悟だったという。7つの名曲を、そのとき小田さんはたったひとりで歌いきった。たったひとりの小田さん。そこから物語は始まっていて、やがて自分も、その物語の脇に身を寄せることになる。

2006年に「SAKURA」を取り上げてもらった。よく勘違いされるが自分たちはデビュー曲からヒットして順風満帆にキャリアを歩んできたと思われがちだ。辛酸を舐めるほどの苦労をしたつもりはないけれど、ヒットしたと言われたデビュー曲の「SAKURA」のオリコン最高位は17位。大きくブレイクしたとまでは言い切れなかった。

「クリスマスの約束」が収録される1カ月前くらいには、初めての全国ツアーを行っていたが、移動はハイエース1台。北海道には修学旅行生に交ざってフェリーに乗り込んで向かった。船のなかで個室はなく、大部屋で雑魚寝をしての移動だ。福岡公演は、10枚ほどしかチケットが売れなかった。そういう時期に、あのひとは「SAKURA」という歌にちゃんと気づいてくれた。

2009年にもう一度、呼ばれた。

10組、20組…可能ならもっと多くのアーティストを呼んで、プロのシンガーたちのユニゾン(斉唱)で楽曲を届けてみたいという。想像がつかなかった。最初は何を言っているのか、理解できなかった。各世代から1組ずつ。小田さんとともに企画を練る人間が集められた。スターダスト☆レビュー根本要。スキマスイッチ大橋卓弥、常田真太郎。いきものがかり水野良樹。「小委員会」と名付けられたその会で、もうどれほどの時間をかけて話し合っただろう。何十時間も5人でやりとりを交わした。

検討を経てユニゾンの企画はかたちを変え、参加アーティストたちの代表曲を出演者全員(20組33名)で一気に歌い上げる試みになった。総演奏時間から名付けられた「22“50”」というこの大メドレー。終わったとき。会場の観客は総立ち、10分近く鳴り止まない拍手。信じられない光景はこれからの音楽人生で目標となる景色になった。

「小田さんには、最初からこれが見えていたのか」

わからない。それはわからないが、小田さんがたったひとりで始めた物語が、とても遠くにたどり着いていることは疑いようがない。ずっとひとりで旗を振っていたところに、多くの誰かが集まっていた。そこで、もう少し多くのことに気がついた。旗を振る背中は、自分が前面に出ることを嫌っていた。番組名には「小田和正の」という枕詞がついていて、もちろん参加アーティストもその名の信頼のもとに集まっているのだけれど、当の本人は番組で自分の歌を選ぶことに消極的で、また、自身にだけスポットライトが集まることを拒んでいた。

「みんな小田さんの歌が聴きたいんですよ」とまわりは口々に言う。
「いや、俺はもういいんだよ」と小田さんが返す。

そんな光景を何度も見た。

同じ時代を生きてきて、ともに音楽をつくってきた者たちが互いに価値を認め合い、敬意を伝え合う。単独戦というよりは団体戦。それが小田さんの一貫した姿勢だった。先輩たちに話を聞けば、それは実は30代の頃から小田さんが持ち続けていた願いだという。日本でも音楽家たちが互いを称え合うアワードをつくれないか。あのひとは孤高という形容詞をつけられていた30代の頃から、外へ、外へと、踏み出そうとしていた。

いくつかの挫折と試行錯誤の先に「クリスマスの約束」もある。小田和正の「クリスマスの約束」をみんなの「クリスマスの約束」にしようとしている。自分からはそう見えた。そしてそれは、まだ完璧には叶ってはいない。あのひとの存在は大きすぎる。身を寄せる大樹として、太すぎる。だから逆風が吹けば、あの背中が風のほとんどを受け止めるし。集まりたいときは、あの背中のもとにみんなが集まってしまう。小田和正という存在が真ん中にある“場”であることは、なかなか変わらない。

それでも、ずっとあのひとは旗を振っている。たったひとりで。弱音は吐かない。人のせいにもしない。言い訳もしない。ただ懸命に、旗を振っている。自分は、あの姿から何を受け取ればいいのだろう。何度もともに音を鳴らし、声を重ねる経験を踏ませてもらうなかで、それは、ずっと考えてきたことだった。

同じことをしても仕方ない。そして当然ながら、できるわけもない。あんな大樹になろうとすることはできない。途方もない。でも、小さな芽でもいい。自立して。あの精神から何かを学び取って。自分なりの問題意識と、自分なりのやり方で。始められることはないだろうか。その先にHIROBAがある。だから、最初に向き合うひとは。最初にそこに呼び入れるひとは。小田さんしか、いなかった。

「シンプルに」という難問

さすがに。

半年かかるとは思ってなかった。夏に入る手前くらいだったろうか、小田さんの事務所を訪れ、曲づくりの手順について、少しだけ言葉を交わして、まずは水野が8小節か16小節か。きっかけとなるようなメロディを書いてきて、そこから往復書簡のように、書き連ねていこうか。そんなところから、スタートすることになった。結局、思いあまってワンコーラスほど書いてしまった。簡単なデモをつくって、送った。その譜面と歌詞のメモを携えて、また会いにいった。

「おお。聴いたよ。まず・・・」

そこからだ。そこから、半年。


作品が無事に完成したあと改めて二人で対談したときに、小田さんは笑って言った。「あの頃は、お前が帰ったあとにスタッフによく言っていたんだよ。おい、これ本当に終わるのかって。あいつ大丈夫かって」

今だから言えるけれど、小田さん。コラボレーションなんて生易しい言葉を最初は使っていましたが、泣く子も黙る、小田“道場”にうっかり入門してしまったと僕は思っていました。そもそも、その道場はなかなか入門もできないから、幸せ以外のなにものでもないのだけれど。小田さんの事務所に何度もひとりで出向く。マネージャーさんが玄関で迎えてくれる。

「え?水野くん、今日ひとり?」
「ひとりです。すみません、何度も何度も来ちゃって」
「いやいや、全然大丈夫。いつもの奥の部屋で(小田さんが)待ってるよ」

部屋に入ると、もはや見慣れた長テーブル。奥のほうの決まった場所に小田さんは座っていて、眼鏡をかけて譜面を確認していたり。ときにはギターを持って歌いながらフレーズを確認していたり。

「お疲れ様です。すみません、たびたび」
「おう。来たか」

小田さんが少し視線を上げてこちらを見る。軽く頭を下げ、向かいの席に座り、譜面と歌詞を広げる。向き合ってもらった。何度も、何度も。毎回の作業が数時間にわたる。このひとの時間をこんなに奪っていいのかと、少し怖くなったが、奪った以上、書き切らなくてはと思った。

無駄なフレーズ。冗長となるもの。匂いのあるもの。そういうものを小田さんは嫌った。

サビ前の1小節ブレイク。説明過多なイントロ。アウトロ。メインフレーズの解決に使われるだけの数小節。ワンコーラス目からツーコーラス目のあいだに入る無駄な数小節。なにかのバックグラウンドを感じるような、ジャンル分けができるような、匂いを感じるメロディ。たとえば和メロなどと呼ばれるような、ああいうたぐいのもの。それらは少しでもこぼれれば、すぐに削ぎ落とされる。

「シンプルに」

小田さんは口癖のように言う。言葉は簡単だが、それは徹底されればされるほど、実現するのは困難な標語だった。必要以上でもなく、必要以下でもない。それ、でしかないものを追い求めるような作業。素数をみつけていくような作業。アレンジデモをつくって送ると、リズムトラックに指摘が入る。ドラムフィルで展開や抑揚を安易につくろうとしていることが、あっさり見破られ、しっかりと突かれる。メロディと言葉、歌だけで「良く」なるものを。「ハイハットだけで済むなら、もう2、4(2拍目、4拍目)のハットだけでいい」。極端な例ではあるけれど、そんな言葉も会話では出てきた。必要なものだけがそこにある状態を、どう見つけるか。


「ワンフレーズ歌ってみただけで、ああ、いいな。それで十分だなと思えるような」

1小節か2小節。さらに突き詰めれば、数音。それだけで、何かを示せるもの。豊かなイメージを与えられるもの。小田さんが理想としているところが、どういうものなのか、少しだけ触れることができた。

思い出してほしい。

「雨上がりの空を見ていた」

「さよなら さよなら さよなら」

「あの日 あの時 あの場所で」

「La La La La La La …言葉にできない」

この短いセンテンスで、あのひとは、どれだけ豊かなイメージを生んできただろう。歌うということについて、真剣に考えだしたのは意外にもソロになってからだと話していた。そしてさらにここ数年になって、より深く考えるようになったという。

「歌で“演じる”というわけではなくて、やっぱり歌で“伝える”んだから」

だから歌の音の出て行きかたについては、すべてのアイディア、工夫、労力を詰め込まなきゃいけない。歌うことに慣れない自分が歌録りに四苦八苦しているのを前にして、小田さんは、さらっとワンフレーズ歌いながら示してくれた。

「例えば“そして”という3文字を歌うだけだって、丁寧にニュアンスをつけて工夫をして、ちゃんと歌うか、ただ、歌うかで全然、広がってくるイメージが違うんだよ」

「そして」

声はあの素晴らしい小田さんのものだけれど、ただ平坦なメロディ。
「それで、これが、こう歌うと…」

「そして」

歌い方を変えて。もう一度歌ってくれた。同じメロディ。たったの3文字。まったく違って聴こえる。そして、のあとの物語も、その前にある物語も。どちらの余白も感じさせる表現の厚み。

「そして」

言葉としても、ただの接続詞でしかないはずだけれど、それが「詩」になる。魔法みたいだった。

「ほらな。どうだ?」

ほらな、と言われても。何も言葉がなかった。言葉にできない、だ。まさに。2つの面で驚いた。ひとつは目の前で実演してもらえたことへの単純な驚き。単純な感動。たった3音。たった3文字がこんなにも豊かに聴こえるんだという、その事実に素直に心が動いた。そしてもうひとつはこのひとも、小田和正でさえも天賦の声だけで今までの道を歩いてきたわけではない。そのことに気づいた驚きだ。考えて、工夫をして、試行錯誤を繰り返して、「雨上がりの」という歌い出しのあの感動にたどり着いている。

そういうことか。何もわかったわけではないけれど、ほんの少し、気づかせてもらった。小田さんも、長い道のりを歩いてきた。そして、いまだに音楽に深く向き合うことに、学んでいこうとすることに、探求していこうとすることに、ためらいがない。

レコーディングスタジオでの雑談。弦のアレンジについて「どういうところから考えていくのですか?」と質問を投げかけたことがあった。たまたま目の前にMIDI用の鍵盤があって、それを弾きながら小田さんは和音の積みかた、ボイシングについて、20代の頃から試行錯誤、いくつかの失敗も繰り返しながら、自分がどんな気づきを得て、どう学んできたかをとても楽しそうに語ってくれた。いつもより少し早口になって、楽しそうに。せっかく教わっているのに自分は「ああ、このひと、本当に音楽が好きなんだな」と大先輩に向かって、そんなことを思ってうれしくなっていた。

9月だったか、10月だったか。始めてから何カ月か経って。

楽曲が8割、9割まとまりかけてきた。全体の尺が決まり、メロディの概形が決まり、歌詞もひとまずのところまでは書かれていて、それでは一度アレンジデモをつくります。と言って持ち帰り、フルコーラスのデモを組んだ。のちに紆余曲折を経て、それは「I」となる作品だったが、そのままレコーディングに入ると思って、ほぼ完成イメージがわかるものをつくった。そのデモを送って、また会いに行った。自分のスタッフには今日でおそらく全容が決まる。もうこれであとは録音だから、スタジオやミュージシャンのスケジュールの手配を始めよう。そんな話をしていた。いつものように小田さんの事務所に行き、対峙する。

「あの、2Aあたりからはじまるリフレインのフレーズあるよな」
「ああ、ピアノの高いところで、四分で繰り返すやつですね」
「あれ、いいな」
「(ほめられた!)あ、あ、ありがとうございます」
「むしろ、あれを歌のメロディにできないかな」
「ああ、やってみますか?」
「そうだな、あれをAメロにして」
「(Aメロ?)はい」
「それで1曲つくってみたらどうだ?」
「(1曲?)はい」
「うん」
「え、それって、新しい曲をつくりなおすってことですか」
「まぁ、そうだな。どうだ?」
「(えええええええええ!!!!)はい、やりましょう」


3カ月くらいかけて、もう少しで完成だった曲をイチから書き直すことが、この瞬間決まった。後日、そのときのことを小田さんに聞いた。

「あのときは、あの曲の行く先が見えちゃったからな。こっち(=新しいAメロ)の方が面白いって思ったんだよ」

落胆というより、高揚した。やってやろうと、思った。最後の最後まで、小田さんは一貫していて。それがどんなにドラスティックな選択でも、どの時点においても躊躇なく、良いと思ったほうを選び、実行する。それは完成の直前まで徹底していた。それを、しかも事も無さげに言う。自然に、当たり前のこととして。

その後また数ヶ月を経て、楽曲が完成し、たどり着いた「YOU」のレコーディング。作業も終盤にさしかかって小田さんは言った。
「やっぱり、ボーカルは一人で(=水野だけで)いいんじゃないか?」

「YOUとI」

曲づくりのなかで最も時間を割いたのは、メロディやアレンジのやりとりよりも言葉のやりとり、歌詞のやりとりだったように思う。

「どこまで言っていいものか、わからなかった」

頭ごなしに否定したり、自分の趣向を押し付けたりするようなことはしたくない。小田さんは曲づくりに入る前から最後まで、その距離感の取り方に迷っていたという。とはいえ嘘をつくひとではない。良くないものを、良いとは言わない。だから、指摘は遠慮のない言葉として出てくる。

「シンプルに」

メロディ同様に、むしろメロディよりもさらに徹底していた。それでいて言葉から膨らむイメージがあるもの。量感があるもの。湾曲表現を嫌った。

歩道に立っている。目の前に車道がある。その道を渡った先の向こう側に「言うべきこと」があったとする。そこにたどり着くにはどうすればいいか、頭を悩ませて書き始める。水野はまわりを見回す。ここから数十メートル離れたところに向こう側に渡れる歩道橋がある。そこまでわざわざ歩いていって、歩道橋の階段を上り、車道を越え、また、もともといた辺りまで戻ってきて目的の場所にたどり着く。ようは遠回りをして、やっと「言うべきこと」にたどり着く。それが小田さんは躊躇なく、時間をかけることもなく、目の前の道をまっすぐにスタスタと渡っていく。最短距離で「言うべきこと」にたどり着く。

それは実力差でもあるし、何が大事か、見えているか見えていないかの違いでもあるように思う。表現に迷うとき、とても短時間でシンプルに言い表せる言葉を口にするので、それには何度も驚かされた。しかし、曲を書いている人間というのは厄介なもので、とはいえ、どこかに自信がある。奥の奥では、自分なりの確信をわずかでも隠し持っていないと、曲を最後まで書くということはできない。自分にも少なからず、それはある。
何が言いたいかというと、たとえ小田さんであれ違う書き手。小田さんが「これはどうだろう」と提示してくれたことも、「違う」と思ってしまうことがある。そして、その「違う」に向き合うことそのものが小田さんに問いかけられていたことへの答えにつながるのだろうと思う。


「理由は、なんだ」


ひとりで曲も歌詞も書いてきたお前が、なぜ今「一緒に曲をつくってほしい」と声をかけてきたのか。その理由はどこにあるのか。自分は、(水野のなかにある)その理由に応えなくてはならない。小田さんとのすべてのやりとりのなかで、いつもその問いが芯にあった。なかなか答えきれなかった。だが、かろうじて最後に言ったのは「ひとりで完結してしまうことを越えてみたかった」。自分の価値判断に従って、自分が良いと思うものを、書き切ることは多分できる。でも、それだけでいいんだろうか。

互いに「違う」があるということ。「違う」を抱えている二人が、向き合って、相手に敬意を持ちながら、素直に言葉を交わして、お互いにじり寄って、その「違う」を越える。そして、なんとかひとつの作品をつくるということ。そこにこそ価値があるんじゃないか。いや、自分が知らない“何か”があるんじゃないか。

「人と人とは、分かり合えない」

歌詞を書いているやりとりのなかで、小田さんに水野が散々伝えたことだ。言葉を二人で考えているときは、結局、表現の技術についてよりも、その背景にある考えについて、とりとめもなく話すことが多かった。別に唯一の答えを見つけ出そうとしているわけじゃない。ただ言葉を交わして、二人で考えることが、豊かな時間だった。

どこか禅問答のようだった。小田さんは真正面から否定することはなかった。ただ、歌詞の言葉のひとつひとつを選ぶとき、その選択に水野とは異なる考えが滲んでいた。歌詞ができあがると、そこに小田さんの考えが、浮かび上がってくる。

「いや、分かり合えるんじゃないか?」

すべてのやりとりは、結局、作品のなかに凝縮されて詰まっていく。異なる二つの考えが、作品のなかで混じりあっていく。そうやって新しいメッセージそのものになっていった歌を、小田さんは最後の最後で、水野にひとりで歌わせようとした。

「やっぱり、ボーカルは一人で(=水野だけで)いいんじゃないか?」

レコーディングの終盤。ミュージシャンを集めたオケのレコーディングが終わり、歌入れに移行して、慣れない水野のボーカルレコーディングが小田さんに導いてもらいながら、ある程度進んだ頃。言われそうな気はしていたが、ついに言われたなと、思った。

「恐ろしいこと言わないでくださいよ」
「いや、もうひとりでいいだろ」
「一度考えてくるんで、明日また話をさせてもらっていいですか」

作品が完成したあとの対談で小田さんは言っていた。

「歌うと変わらざるを得ないだろうなとは思ったんだよ。そこを通ってほしかったんだよね。一緒に何かをやろうってなったときに、何よりもまずは(水野に)“歌を懸命に歌わせよう”と。それは最初に思ったよね」

いきものがかりというのは、考えてみれば少し特異なグループで、歌う人間とつくる人間が違うというグループだ。水野や山下が書いた言葉、メロディを、まったく違う人間性をもった吉岡が歌う。自分の言葉が他者に歌われることによって普遍性を獲得する。そういうグループに長く、身を置いてきて。おそらく逃げていたものがある。そこを小田さんは経験させようと思ってくれていたのだと思う。

「もっと歌と近くなって、本人が本人の書いた言葉で本人の声で歌うっていうことを、ちゃんと体験してほしい」


だが、このときばかりは「わかりました」と言えなかった。小田さんに、散々向き合って歌を一緒につくってもらって、最後の最後でひとりで歌うことまで導いてもらって、それじゃ、結局、自立ではない。そして最も大事な、小田さんとの“対峙”ではない。誰にでも予想がつくことだが、小田さんと一緒に歌えば、100%、水野の声が負ける。小田さんの歌声が一節入った瞬間に、すべてのひとの耳がそちらに意識を集中させる。さすがにあの声を前に、今回初めて歌うような人間の声が、まともに張り合えるわけがない。そんなこと、わかりきっている。若輩だけれど、さすがにそれがわからないほどの、経験不足じゃない。

だがそこに意味がある。向き合うことに意味がある。言うならば、負けてしまうことにも意味がある。実力差も、経験の差も、互いの「違う」の差も、すべてをひっくるめて、小田さんと向き合う。最後の最後まで向き合ってもらう。そこに「一緒に曲をつくってくれませんか」と言った意味があった。わがままを言って、食い下がった。ボツになった曲がある。完成間近まで行って、小田さんの判断もあって、ストップしたあの曲。

「あの曲を最後まで書いて、ひとりで歌って、完成させます」

小田さんが経験させようと思ってくれたこと。それも小田さんの気持ちではある。それに対しては感謝の気持ちしかないし、そこに自分も応えなければならない。自分のために、与えてくれた課題。それには、あの曲で自分なりに答えを出す。

「でも、この曲は小田さんと向き合うことに意味がある。だから一緒に歌ってください」


なかなかにしびれる時間だった。数分の会話でのやりとりだったと思う。小田さんは頷くでもなく、静かに聞いてくれた。そして一言。

「俺は無し(=水野がひとりで歌う)をおすすめするけどね」

と笑って席を立ち、ブースに入っていき、マイクの前に立ってくれた。小田さんがマイクの前に立ったのは、半年間でそのときが初めてだった。歌ってくれた。

小田さんと向き合ってつくった曲のタイトルを「YOU」とした。そしてひとりで最後まで完成させることを選んだ曲のタイトルを、あえて「I」にすることにした。

「YOU」と「I」

まさにHIROBAにとって、テーマになりえる言葉をタイトルにできたと思う。この2つの作品で、HIROBAはスタートできた。

Text by YOSHIKI MIZUNO(2019.4)
Photo/Kayoko Yamamoto
Hair & Make/Yumiko Sano

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