いかに自分で自分を編集して出せるかどうかが、文章のうまさ。
“本当の自分”を書けるわけがない

くどう:感動されたくないと言いつつ、基本的に私は、「自分の書いたもので喜んでほしい」とは思っているんですよね。昔から書けたものはすぐに見せていました。家族にも、友だちにも、担任の先生にも、「書けたよ!」って走って見せに行く。文芸だと、こっそりひとりで書くタイプも多いなか、誰かに見せること前提で書くのが好きだったんです。
水野:なるほど。
くどう:だからこそ、本当は衝動的に書きたくなってしまう攻撃的なこともいろいろあるんだけれど、「見せられないことは書かなくていい」となっていって。より、茶目っ気があったり、コミカルだったりする部分を、みんなには見せたいなって。それは道化をしているわけではなく。嘘をついているわけでも、ニセモノの自分を見せているわけでもなく。“書いている私用の私”なんです。ということは、完全な“本当”でもないですよね。
水野:ああー。
くどう:起きていることも感じたことも “本当”ではあるんですけど。それを自分自身だと思いすぎると、傷つくし楽しくない。読んでいるほうもヒリヒリ痛い。せめて作品を読んでいるときくらいは楽しい気持ちでいたい。だから、残すなら明るいところを残したいんです。10代の頃はポジティブなものや感動するものに対して嫌悪感が強かったのに、今の自分が明るいものとして消費されているのは皮肉でもあり、おもしろいなと思います。
水野:「皮肉だ」と言えてしまうまなざしが、在り方として強いなと思います。
くどう:私は、手紙も日記もSNSのポストも、表現であり作品だと思うんです。作品だと思いたい。書くものすべてを、そのひと自身というより、そのひとの創作物として捉えているところがあります。それは、「本当の自分を書けるわけがない」と、どこかで諦めているところがあるから。それならば、いかに自分で自分を編集して出せるかどうかが、文章のうまさなのかなと。
水野:それはうまいひとじゃないと言えないことですね。
くどう:いやいや。10代の頃から、スポーツのような競技として、「もっと文章がうまくなりたい」と思いながら書き続けている気がします。だから、作品としては、私自身に紐づいたパーソナルな部分が、似たような暮らしをしている方や同世代の方から支持を得ている自覚はあるのですが、“晒すこと”を商品には一切していない。そう言っておかないと、という感じです。実際は自分自身なのかもしれないし、作品に何か言われれば私も傷つくけれど。
緑の紅葉を食べました

水野:その距離の取り方は絶妙ですね。僕は20歳ぐらいのとき、「デビューしたい」と思って、ライブハウスに行っていたんですね。そこには音楽好きのひとたち、音楽で食べていこうとしているひとたちが集まっていて。すると、これも皮肉なのですが、みんな同じ顔で、「俺は特別で、他とは違うんだ」と主張しているんですよ。
くどう:ああー。
水野:それが異様に見えたというか、どこか冷めてしまって。だからこそ僕らいきものがかりは、そのときに誰も言っていなかった「みんなが歌うもの」を作ろうと考えたわけです。それから20年間、常に“晒すこと”とか“本当のことを書くこと”がもてはやされる世の中と戦ってきました。でも、書いているひとの“本当のこと”なんて、書いている本人にもわからないし、そもそもそんなものがあるのかどうかも曖昧なんですよね。
くどう:今、似たような経験を私も思い出しました。高校生の頃は文芸部にいたんですけど、同じく「自分らしい表現をしたい」と思っている子たちが集まっていて。あるとき、東北の文芸部員が集まって、その場で詩を作るワークショップが開かれたんですよ。紅葉が赤くなっていくさまを、いかにうっとり表現できるか。それこそ“特別な俺”の表現をしようと、みんなが躍起になっている様子が「気持ち悪いな」と思ってしまって。
水野:はい、はい。
くどう:写真と言葉を組み合わせるという創作で。当時、みんなガラケーで一生懸命に青空と紅葉を撮るわけですよ。その撮っているへっぴり腰も馬鹿らしくて。「違うことをしなくては」と思った私は、まだ赤くなってない緑の紅葉を食べました。
水野:極端!

くどう:食べた自撮りとともに、「みんなが綺麗と言っている紅葉だが、食うと苦くてまずいことを何人が知っているのだろう」みたいなことを書いたんです。ユニークでいたかったのかもしれません。
水野:ユニークであると見せたかった。
くどう:はい。自分が暗かったり、ひがみやすかったり、単に前向きでいられなかったからこそ。
水野:でも、非常にテクニック的なことでもありますよね。「おそらくみんなは紅葉を“綺麗だ”という視線で行くから、違う方法で行こう」って。
くどう:食レポで行こうと!
水野:これは視座を変えるだけの話だから。本当に“美しさ”について考えるなら、“まっすぐ見よう”とする。さらに“まっすぐ見るとは何か”と考える。そちらの方向で深まっていくことがいいんだろうけれど。くどうさんはテクニックに行ったのが、非常に“らしい”なと。
くどう:シンプルに、自分しか知らないことを味わいたかったんでしょうね。「本当のことを書いているわけじゃない」と思いつつも、「自分がそう感じた」という手触りは大事にしていたくて。紅葉も、花も、月や太陽も、見ると私は、「みんなからそう思われているこの子たちを解放できないか」みたいなことを考えちゃうんですよ。
水野:ああー。
くどう:「紅葉はいつも“頬を染める”比喩にされて、退屈じゃないのかな」とか。「月はすぐ“祈り”と重ねられるけれど、自分の光がまっすぐな道になることが退屈じゃないのかな」とか。おもしろいと思われたいのかもしれません。自分自身がまったく変なやつじゃないからこそ、常識的な範囲内で、変で在りたいというか。
「私が書いたぞ」ということだけは本当

水野:仮に“本当のこと”というものがあるのだとしたら、誠実なのはくどうさんのようなやり方なのかもしれません。“本当のこと”は結局、言語化できないものだと思うんですよ。頭のなかで整理がつかず混濁しているもの。形にできないもの。
くどう:はい。
水野:それをあえて形にしたのなら、“本当のこと”は虚構と混ざり合うはずで。つまり、くどうさんのおっしゃる、「でも私の“こう見せたい”という欲も入っているんですけどね」という、どこか整理のつかない感覚こそが、いちばん誠実なのかもしれないなと。
くどう:どうなんでしょうね。“本当のこと”かどうかはわからないけど、「私が書いたぞ」ということだけは本当になるので。私は世代的にも絶妙なところなんですよ。たとえば、CDとMDとウォークマンと。
水野:一応、すべて通っていらっしゃる。
くどう:はい。ひとつひとつが一瞬のこととして過ぎ去っているんです。SNSとかもまだそこまで普及していなくて。ただ、個人のホームページやブログはあったり。自分のことを晒せる状態ではあるけれど、Facebookほどの紐づき方はしてなかった。だから、「紙面や画面上にある自分と、肉体としての自分は違う」という気持ちもある世代で。
水野:ああー、なるほど。
くどう:私の作品に対する距離感が、個人のものなのか、世代によるものなのか、わからないまま過ごしているところはあります。少なくとも、「自分を晒すことが表現だ」という世代よりはあとに生まれた気がする。とはいえ、「すべてエンタメ」という感じでもない。
水野:はい、はい。
くどう:その中途半端さに、「本物ではない」と思った時期も長かったです。それでも、これだけいろんなひとに本を読んでもらえるようになったということは、そこに居心地のよさみたいなものを感じてくれる世代がたくさんいるということだと思うから。それは私にとってありがたいことですね。
文・編集:井出美緒、水野良樹
撮影:谷本将典
メイク:内藤歩
監修:HIROBA
撮影場所:光原社
https://morioka-kogensya.sakura.ne.jp
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