鷲田清一(哲学者)第2回

ひとは生きている”しるし”の集まり

音楽って焚火みたいなもの

鷲田:僕はてつがくカフェと、『おもいでがまっている』って、ほとんど一緒だと思います。

鷲田:これは神様がいない小説なんですね。古典的な小説には神様、著者がいて、登場人物をすべて配置して、出来事を客観的に描写する。でも『おもいでがまっている』はそういう上空から見ている著者がいるわけじゃない。登場人物たちが同じ場で、同じことに遭遇しているんだけど、ひとりひとり違う思いでいて。ここの10ページはAさんの世界で、でも同じことを次の10ページになると、別のひとは違う感触で捉えていて。そういったものが物語のなかで並列に、だんごのように続いていく。読者がそれを自然と相互浸透させて、「こういうズレがふたりのあいだにあったのか。互いに思い合ったがゆえのすれ違いだったんだなぁ」とか感じてしまう。だから最後、胸がいっぱいになった。

水野:今、僕が胸いっぱいです。すごく読んでくださったんだって。

鷲田:視点がひとつじゃないことを書いている。てつがくカフェもそうだと思う。同じ悩みのように見えるものでも実は違うかたちで語るひとがいることを知ると、もう1回自分を見つめ直すきっかけになるじゃないですか。その多視点性を経験できるのが、てつがくカフェとか、この小説とか、HIROBAというプロジェクトのおもしろさだと思う。水野さんが自分の本職から離れたひとに会いたいとおっしゃるのも、そういうことなんじゃないかな。

水野:おっしゃるとおり、他者の視点を見てみたい、自分だけの視点が寂しくてしょうがないというのがあって。他の分野の方と曲づくりをするのも、曲という“焚火のような存在”をあいだに置いてみて、それを眺めて語り合うことで、ひとつの物語のなかでは一緒になれるみたいなことを表現したいと思ってやっていたんです。


水野
:いい意味でも悪い意味でも、自分がコントロールできない外側の存在からの応答なり、やり取りが、自分の内側の問題を解決していく、ちょっといいほうに動かしたりする。そういうことが絶えず行われ続けている場所としててつがくカフェに惹かれて、そこに僕が悩んでいることのヒントがあるんじゃないかと思ってしまって。

鷲田:さっきおっしゃっていた、歌をつくるときに自分の世界をつくりすぎるとかえって他者を拒絶するって、そういうことじゃないかと思うんですよね。自分のストーリーをガチガチに作ってしまうっていうのは、ある意味では隙間というか、空白がなくなってしまう。エアポケットみたいなものがあえてあったほうが。でも、そのエアポケットのつくり方っていうのが…。

水野:難しい。

鷲田:ただのエアポケットだと意味がなくて。それが難しいんでしょうね。ただね、今、焚火という言葉をおっしゃって「そうか、音楽って焚火みたいなものか」って思ってね。焚火ってまず暖かいじゃないですか。それから、会議室だったら沈黙のとき、「居づらいな…」って思うけど、焚火のまわりっていうのは不思議なもので、無理に話をしなくても、何も考えなくてもそこにいられる。他者による脅迫みたいな怖さを感じることもなく、一緒にいられる。だから焚火っていい比喩だなと。

鷲田:僕は音楽のルーツってよく考えたことがないんですけど、労働歌のようにみんなで一緒に作業するときに始まったのかなって。あるいは祈りというか。それは自分たちの存在を越えたもの、自分たちの運命……それこそ、昔はいつ飢餓が起こるかもわからない。だから天候が安定して秋の収穫を迎えられるように祈る。そういう自分たちの存在や運命を超えたものへの呟き、あるいは他者への呼びかけみたいなものが歌になったのかなぁと。

それに歌は、熱が伝わってくるし、緩いところがいいんだ。途中のフレーズだけを歌ってもかまわない。歌が流れたら適当に一緒に口ずさむ。口ずさまずに聞いているだけでもいい。焚火のまわりにいるのと同じで、無理しなくてもそこにいられる、しかも他者と一緒にいられる。そういうところが歌にもあるのかなぁと思って。

水野:その「適当に口ずさむ」というところが歌の強いところだなと思います。それこそ東日本大震災のときに、こういう仕事をしていると、「ひとを励ます歌をつくってくれ」と言われがちなんですね。もちろんつくれるものならつくりたいけれど、今「元気出せよ!」って歌をつくったら、確実に傷つけてしまうひとがいる。

だから何をつくっていいかわからない。そうやって無力感に苛まれていたとき、テレビのニュースで、自身も被災した中学生たちが僕らの「YELL」という歌を同じように被災された方々に対して歌っていた映像を観たんですよ。つくった人間はこんなに悩んでいるけれど、歌は悲しみの当事者とほどよく距離をとっている。悲しみの状態にある方も、自分の悲しみに合わせて歌と向き合っている。悲しみが重過ぎれば聴かないし、悲しみに寄り添ってほしいと思ったら、僕らが思う以上に深く歌を聴いているはずで。そういうふうに、歌のような“人間でないもの”のほうがひとを助けるのかもしれないなって感じて。それはたとえば焚火であったり、毎年咲く桜であったり。そういう存在になれないかな、なれないな…っていう堂々巡りをしているんです。

”しるしの集まり”としてのひと

鷲田:僕はもともとひとってね、そういうものなのかなと思っていて。僕らは名前を持って、いろいろ職業があって、“ひと”をひとりの個人としてまとまったものって感じるけどね、本当はひとって、欠片、断片。僕はひとって“しるしの集まり”みたいに思っているんです。普通は心が全体を統一しているみたいに考えるけれど、本当はもう少しバラバラというか。たとえば、去っていくときの後ろ姿、ものを掴むときの指の形、首の傾げ方、まなざし…。僕らがひとに恋をするときも、そういうものにビビッと来てしまうことってあるじゃないですか。人格としてじゃなくて、生きている“しるし”みたいな一片。ひとはそういうものの集まりだなと。

音楽でも、哲学でも同じで。音楽は曲としての構造はしっかりあるじゃないですか。哲学も緻密に論理はある。ただ、ひとが哲学に惹かれるのはそういうところじゃないんですよね。たとえば、僕の原体験でもあるんですけど、大学に入ったときに触れて震えた、「自己とは、関係が関係それ自身に関係することである(※)」という言葉。

「自己とは、関係が関係それ自身に関係することである」
哲学者・キルケゴールの著書『死に至る病』より

鷲田:最初はさっぱり意味がわからない(笑)

水野:鷲田さんからそのフレーズを聞けて今、長嶋茂雄がホームラン打った瞬間を見たような感覚です(笑)ご自身の原体験として、よく本や対談などで、その一節に触れられていますよね。

鷲田:読んで意味がわからないのに、そのときは何かすごい真理に触れた気がしてね。前後の脈略からもわからないんですけど、それだけが気になる。そして何度も何度も読んでいるうちに少しずつわかってくる。あぁ、こういう意味で言っているのかなって。で、わかってくると、他の場面を自分で考えるときも、「そういう発想ならこう見えるんじゃないか」と広がっていく。だから哲学に惹かれてしまう。音楽も、メロディーや言葉の断片に触れて、自分が揺さぶられる。そして、ある曲が自分にとってのテーマソングみたいになってしまう。それと同じように実は人格っていうのも、メロディーの一端に触れるように、そのひとのふるまいとか、言葉遣いとか、目つきとか、そんな断片にビビッ!と来るんじゃないかなって。そんな感じってないですかね?

水野:それはすごく重要な気がします。今って、統一された自分であることをすごく求められる世の中で。たとえば、倫理的に許されないことを犯してしまったら、ずっと責め続けられる。ひとつの出来事がそのひとの断片であることが許されないというか。ずっとそのストーリーで生きていくことを求められる。だからこそてつがくカフェのように、“統一性を緩めてあげる”ことはヒントになるんだなって。

鷲田:自分を漂わせたままでいられるってそういうことですよね。いろんな要素をぎゅっと縛っている紐をちょっと緩める。『おもいでがまっている』の主人公の子どもたちも、ぎゅっと自分を縛らないともたないような状況にあったじゃないですか。母親を恨むというかたち、あるいは帰ってくるのを“待つ”。その一点でぎゅっと自分を縛らないともたないような状況にあった。でも、この小説の最後のカタルシスっていうのは、「いやいや、それは緩めていいんだよ」っていうメッセージじゃないですか。

水野:ええ、まさに。

鷲田;本当にしんどいときはぎゅっとしてないともたないんですけどね。でも、それが今度は自分を別のかたちで苦しめて、にっちもさっちもいかなくなる。そこで、ほどく経験を…自分がふさいでしまっているときに、そういう公共の場に出てきて、結論も見えていない途中のことをそのまま言葉にしても、聞いてもらえる。あるいは反撃されない。そういう安心感みたいな。日常でちょっと自分をほどける、漂わせておける経験って大事ですよね。でも街にそういう場が…。

水野:ないですね。なかなか。

鷲田:若い頃ね、家から仕事に行くときに、京都らしいなと思うんだけど、近所のおばちゃんが朝、「どちらへ?」って聞くんです。どこにお出かけですか?という意味で。で、僕が「ちょっとそこまで」って返すと、「はよう帰り」って言うんです。まったく中身がない会話じゃないですか(笑)

水野:いいですね。

鷲田:そういう隙間だらけの言葉遣いができる時間が、家族以外にもありましたよね。それが徐々に消えていることで、街がよそよそしいものになってきている可能性があるなって。街が自分より“難しく”なるみたいな。

水野:隙間のある会話をして、偶然が降ってくるような、緩むタイミングがないのかもしれないですね。

他人の歌だから大声で歌える

鷲田:普段と違う隙間をつくる感覚って、僕は鶴見俊輔さんという哲学者に学びました。鶴見さんは小学生にも、大人と同じように話しかけるんですよ。ちゃんと「~さん」で呼んで。僕らはついつい「近所のおばあちゃん」とか「おじさん」とか、役割言語で話してしまうでしょう?若いひとも、お年を召した方に「おばあちゃん」って保護の対象みたいに。だから、鶴見さんのそういう年関係なしの言葉遣いはマナーとして素晴らしいし、上品だなと思って。ひょっとしたら英語とか学ぶ理由もそういうことなのかなって。誰に対しても「You」は「You」だから。外国語を学ぶって、もちろん話を通じたいって理由もあるけど、人間関係は言語が違うと根本的に…。

水野:変わっていく。

※鶴見俊輔
1922年、東京生まれ。哲学評論家。ハーヴァード大学卒業。
10代で渡米。1942年、日米交換船で帰国。
1946年、丸山真男らと「思想の科学」創刊、アメリカ哲学の紹介や大衆文化研究を行なう。

鷲田:相手との根本からして違う。こういう関わり方もあるんだよって。日本語だったら「お前」って先生のことを呼んだら暴力学生みたいになるけど、英語だったら先生のことを「You」って言っても、自然で。あれってすごいことだなって思ってね。もちろんこれは単語だけの話だから、それに代わる、尊敬の気持ちを表す表現もいっぱいあるとは思うんですけどね。でも少なくとも代名詞に関しては、羨ましいなと。

水野:話が派生しますが、日本語の代名詞の豊富さは、歌を書くうえでも悩みますね。主格をどう表すかでその歌のキャラクターが変わるので。「僕」というひとと「俺」というひとではまったく性格が違うというか。

鷲田:なるほど。

水野:でもだからこそ、それぞれの関係に対してフィットできるのも日本語のおもしろさだなと思っていて。年配の方を「おじさん」と呼ぶか、「おじちゃん」と呼ぶか、「おっさん」と呼ぶか。それだけで、呼ぶひとと呼ばれるひととのあいだの距離の違いを表現できる。ふたりの関係をなるべく実際の距離に近いかたちで表現できる。それもそれで素晴らしいことだなと。

鷲田:音楽はどうして楽なのかなぁと考えるとき、水野さんに聞きたいのは、音楽って一方ではものすごく厳格じゃないですか。順番があって、メロディーの順番を変えたら曲にならないし。エンディングもしっかり決まっている。クラシックなんかそれがガチっと。ところが他方で、歌や音楽って、さっき言ったように鼻歌のワンフレーズだけでもいけるでしょう?スピードなんかも伸縮自在じゃないですか。調子がいいときは早く歌って、しみじみしたいときはゆっくり歌って。僕らひとりひとりにとって、伸縮自在で、断片でも許される。

行動のスケッチみたいな面もあって。スポーツでいえばジャンプをするとき、体の動きを頭のなかでイメージして、まず全体の動きのリズムがある。そのリズムにのって、うわーっと行くじゃないですか。歌もそういうところがあって。僕らって普段やり慣れている行動でもなんとなく段取りがある。歌ってその段取りみたいなものに伴走してくれるところがあって。だから自分のふるまいが整うというか。歌とともにね。

水野:伺っていて思ったのは、僕らもいつも思うんですけど、目に見えないじゃないですか。音楽って。ものではないので。先生の前で「現象」という単語を使うのは勇気が要るんですけど。現象じゃないですか。だからこそ断片でいいというか。僕らはある順番でメロディーをつくって、地図を一旦つくって、「こういうものですよ」って提示はするんですけど。ただ、感動する主体っていうのは、聴き手なんですね。まぁ、僕らも演奏をしながら同時に聴き手でもあるんですけれど。音楽に対して、演奏をしながらも、その音楽を聴いている。

鷲田:ああ、なるほど。

水野:なので客席にいる方と、僕らって実は同じものを聴いていて。だから主格が僕らだけじゃない。シンプルに考えると、演奏しているから、主格は僕らなんじゃないかと思われがちなんですが、常に“聴いているひと”がそれぞれの頭のなかで想像して作品ができあがっていくものだと思うんです。

だから、もともとそこにある構成された“モノ”としての作品が、どれくらい大きいか小さいかとかって話ではなくて。常に音楽はみなさんの頭のなかで湧き上がるもので。あるひとにとっては、そのひとの人生を変えるような巨大なものになるかもしれないし、あるひとにとっては、日常のなかの些細なもので終わるかもしれない。そんなふうに個別の可変性が常に許されているのが音楽で。先生がおっしゃられるように断片とか、自由な捉え方ができることが僕は音楽の可能性だと思うんですけど。

鷲田:他人事であるのも大事なのかもしれないですね。たとえばアフリカなんかでは、ご婦人たちが集まって食器を洗ったり皮むきをしたりしながら、歌っているじゃないですか。あれは家族への恨み言とか、鬱憤を晴らすような歌が多いらしいんです。でも、建前上は自分の感情を表しているわけではない。「こういう歌があって、他人の歌」だと。だから大声で歌える。それはカラオケも同じで。失恋の歌でも、「これは僕のことじゃない」と言えるから、逆にものすごく情感を込めて、自分が失恋真っ只中のどん底にいるかのように歌える。歌のおもしろいところってそういうところにもある気がします。

おとぎ話や民話なんかも結構しんみりしていて。お嫁に行っていじめられたこととか、子どもを失ったときのこととか、シビアな恨み言や悲しみを語るのに、飄々と「むかしむかし…」って語るじゃないですか。あれもやっぱり他人の話だという前置きがあるから、情感を込めて語られていく。ある地域で語られたことが、「こういうひとの話」というところまで普遍化して、隣の村でも語られるようになっていくと、やがて“昔話”になる。誰が言い出したのか、歌い出したのか知らない。

水野:詠み人知らずみたいな。

鷲田:そう。代々語り継がれる普遍的な物語として残る。歌ってきっとそういうところがある。本当の歌は100年後、誰が作ったか誰も知らないけれど、語り継がれていく。

水野:そこを目指したいんですよね。

鷲田:あぁ、目指したいんだ。

水野:目指したいですね。大胆過ぎるのかもしれないですけど。

文・編集: 井出美緒、水野良樹
撮影:濱田英明
メイク:内藤歩
監修:HIROBA
協力:せんだいメディアテーク

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