鷲田清一(哲学者)第3回

「Alone Together」=ひとりぼっちのままで一緒にいられる

自分が相手にしているのは…


水野:よく鷲田さんの本にも書かれていますけれど、みんながイメージする哲学の難しい言葉、しっかり論文調としてお書きになっていたものが、だんだん語り口を大事にされるようになって。哲学の専門用語を知らない僕らのような人間でも入りやすい、エッセイというスタイルに変わっていかれたと思います。そのなかで「それは哲学ではないんじゃないか?」という批判に晒されたり、ご自身が考えて論じられたことに対して強い言葉をぶつけられたりした際、鷲田さんはまずどのように考えるのでしょうか。

鷲田清一 著書例

『〈ひと〉の現象学』
この世に生まれ落ち、やがて死にゆく“わたし”たち、“ひと”として生き、交わり、すれ違うその諸相―。困難な時代のただ中で紡がれた、共鳴しあい連鎖する哲学的思考。
『「聴く」ことの力 ─臨床哲学試論』
哲学とは<聴く>ことによって変わる自分の営みなのではないか──哲学の新たな可能性を追求する注目の論考。桑原武夫学芸賞受賞。
『モードの迷宮』
拘束したり、隠蔽したり……。衣服、そしてそれを身にまとう「わたし」とは何なのか。スリリングに語られる現象学的な身体論。 


鷲田:あまり怖くはなかったですね。というか“批判”と“非難”は違うと思っていて。哲学の分野で書いていくのは“批判”であって、人格攻撃ではないんですよね。それだったら理屈で返せばいい。それと、失礼な言い方だけど「自分が相手にしているのはこの本を書いたひとだ」って思うから。音楽で言えば「俺の相手はベートーヴェンだ。モーツァルトだ」みたいなね。そういうちょっとした傲慢さが自分を支えているところがあるのでしょう。

鷲田:だって最初に哲学に惹かれたのはそのひとたちの言葉ですから。僕の場合、文章を書くときにいちばん怖いのは、僕が尊敬している、敬愛している、あるいは影響を受けた数人の哲学者、先生。そのひとたちの目に触れて、呆れられないか、情けないと思われないか、それだけですね。不特定多数じゃなく。

水野:それはその哲学者の方との一対一の関係のなかでの恐怖でしょうか。それとも、その哲学者の方が考えられた理論に対する恐怖なのでしょうか。

鷲田:一対一の恐怖ですね。もうとっくに亡くなっている方がほとんど。でも、「このひとがここまで考え詰めた強度に達してない自分は緩いなぁ…」って思うのがツラいんですよね。僕らは大抵、折り合いをつけて、よくできたストーリーで終わってしまう。憧れたものがあるからこそ、そこに行きつけていないことは自分でよくわかるし、苦しいところですね。

鼻歌のようにデカルトの言葉が語られる


水野:こんな言い方は失礼かもしれませんが、その方々の存在がご自身のなかでどんどん大きくなってしまうことはないですか? 虚像というか。たとえば亡くなった方であったりすると、実像なのでしょうか。

鷲田:書いてあるものが証拠としてありますね。エッセイを書き始めた頃、予備校の国語の先生をしている友人が、「お前は引用文を接続詞の代わりにしている」って言ってくれたことがあるんです。ほぉーって思って。次の話にいくとき、「しかし」とか使わないで引用文を挟むのが特徴だって。で、そんな自分の気持ちを分析してみたらね、考え詰められない人間だから、読んでもらうほどの文章じゃないから、せめて僕の文章のなかに出てくるひとたちのすごい言葉に触れてほしいということなんですよ。それでショックを受けたり、身がひらかれたり、目から鱗のような感覚を持ってもらえたら、僕が書いた意味がある。自分はそこまでしかできないなって。ダメです、怖がりなんです。

水野:先ほどのお話と繋がるんですけど、どこか民話的というか。鷲田さんというフィルターを通して、いろんなお話が詠み人知らずなものになっていく。僕も鷲田さんの本を読ませていただいたときに、哲学の言葉に出会う。出会うと、それについてもっと知りたくなって、自分なりにちょっとずつ浅瀬を行く。それは結果、僕が自分では言語化できなくとも、僕のなかに“姿勢”として残っていくというか。民話に託されている教訓みたいなものを、民話を受け継ぐ側のひとたちが実践していくのと同じように。

鷲田:断片的に鼻歌的に、「こんな言葉があるよ」って感じでね。要するに伝道するというか。そんなふうに書ければ気は楽なんですが。鼻歌のようにデカルトの言葉が語られるとか、悪くない。

水野:「鼻歌のようにデカルトの言葉が語られる」ってすごく夢がありますね。僕はデカルトのように語ることはできないけれど、「世界とはこうであるんじゃないか」とか「こうであってほしい」とか、なんとなく歌に滲み出すことはできて。その概念は僕が死んでも、歌として残って伝わっていくみたいな。その可能性があると思えることは励みになります。

鷲田:よく考えると、音楽って怖いじゃないですか。たとえば軍歌なんかは、ひとを熱狂的に一体化してしまう。歌は心をほぐしたり、やわらげたり、癒したりもするけれど、一方で心をひとまとめにして煽り、高ぶらせる。どちらも折れた心に生のリズムを与えてくれるから大事なんでしょうけれども。僕は、音楽のライブってこの頃は滅多に行かないけれど、「いいなぁ」と思うのは、盛り上がっているけれど熱狂じゃないときなんです。

鷲田:ジャズのスタンダードで「Alone Together」って言葉があって、好きなんですね。本来は「ふたりきり」という意味。たとえば、恋人たちとか、親友同士とか、ふたりきりは寂しいんじゃなく、強いんだぞという歌らしいんです。だけど僕は、ひとりぼっちのひとが、ひとりぼっちのままで、一緒にいられる、と捉えているんです。

それが哲学カフェのイメージとしてもあるんですよ。みんなが連帯するとか、ひとつの言葉に共鳴するとかっていうことじゃなくてね。みんな抱えているものは違って、ひとりぼっちなんだけど、ひとりぼっちのままでその場所にいられる空間がすごく好きで。だから音楽のライブでも、聴いているひとがそれぞれの思いでいるんだろうな、aloneのままでtogetherしているんだろうな、っていう場が好きですね。

 Chet Baker 「Alone Together」(1955)


2011年5月8日、図書館の行列

鷲田:僕は2013年4月からせんだいメディアテークの館長をやらせていただいているのですが、きっかけになったのが最初にここをお伺いした講演で。それが2011年5月4日のことなんです。震災から50日ぐらい経って。メディアテークもちょっと天井が剥がれたり、書架が全部ひっくり返ったりして。その図書館が再オープンするときのイベントで、お話させてもらいました。その講演自体はすごくしんどかったんですよ。まだみなさん電気も水道も通っていないような段階でお話をするわけですから。生涯でいちばんしんどい講演ではあったんですけれど。でも、そのあとね、館内を見せてもらったとき、図書館の貸し出しに行列ができていたんですよ。

鷲田:みなさん、たくさん本を抱えていて。最初は「えぇ!」と思って。まだ家も停電のままの時期に、図書館へ行く気になるんだろうかって思っていたから、そのシーンだけで衝撃的でした。でも、よく考えたら、いつ余震があるかわからない緊張の極みにずーっとあるわけじゃないですか。そんななかで、やっぱり地震の文脈とは違うところに自分を漂わせてみたいという欲求は、ひとりひとりにあったのかなぁと思って。避難中だとか、家族を亡くしただとか、そうしたコンテクストから自分を外して、自分をぽんひとり置いてあげたい気持ち。そういう意味で、あのときの図書館も「Alone Together」な世界だったのかなぁと思いますね。都市に喫茶店が要るのもよくわかった。自分をひとりにほどくことができる場所。

水野:ちょっといい塩梅に匿名になる感じなんですかね。

鷲田:お互い無関係なままで、排除し合うんじゃなく、ひとりきりになれる場所なんですよね。

編集 : 井出美緒 水野良樹
撮影 : 濱田英明
メイク :内藤歩
監修 : HIROBA
場所協力:せんだいメディアテーク

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