人間の作為を超えたものが「いい言葉」
野呂靖(のろ せい)
龍谷大学 心理学部准教授。1979年生まれ。龍谷大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は仏教学。認定NPO法人京都自死・自殺相談センター理事。著書に『はじめて出遭う仏典のことば』(本願寺出版社)、『東アジア仏教思想史の構築』(共編著、法蔵館)など多数。
野呂:水野さんの講演、胸を打たれました。 私は仏教学が専門なのですが、そういう教員は悪い癖があって笑。何でも「仏教だ」と言ってしまうんです。つまり、どんな映画を観ても、どんな歌を聴いても、どんな絵を見ても、「仏教ではこう解釈できる」と。先ほどの水野さんのお話も、すごく「仏教だな」と感じて。
水野:そうなんですね。
野呂:とくに「自然の「似姿」としての歌」のお話ですね。歌というものを突き詰めていくと、究極は水や風などの自然環境の音となんら変わりのないもので。普遍性を持ち、個別性を超えたものである。これって実は仏教がかなり詳しく議論してきた内容のひとつでもあるんです。具体的には、空海という平安時代の思想家が同じようなことを言っています。
だけどそもそも、仏教で「言葉」とは“あまりよくないもの”というイメージで。水野さんも話されていましたが、言葉はやはりひとを傷つけてしまう面がある。単に荒っぽい言葉だからというだけではなく、視線の先にあるものを特定の名づけをして、限定化してしまうんですね。「好き」と「嫌い」、「善」と「悪」、「昼」と「夜」とか。
たとえば、1日24時間って、どこからが「昼」でどこからが「夜」になるか明確に決まっているわけではないですよね。でも私たちは名づけをすることによって、分節化する。もっと強く言えば分断化してしまう。分断は対立も引き起こしてしまうし、それは自分に返ってきて自分も傷つけちゃう。仏陀は2500年前のひとですが、やはり言葉はそこが問題だと。
ただ、人間は結局、言葉を使わないとコミュニケーションを取れないですよね。対話できないし、愛の言葉も叫べないし、悲しみも表現できない。すると、「いい言葉」とは何だろうかという話になってくる。言葉全体をダメだとするのではなく、むしろひとを繋げていったり、本質的なものを見据えていくための言葉ってあるんじゃないかと。こういうふうに2500年ぐらいある仏教の歴史のなかで言ってくるんですね。
水野:はい。
野呂:「いい言葉」とは、簡単に言うと、丁寧に紡がれた言葉。自分中心に発されたものではなく、相手を配慮し、相手の気持ちに沿った言葉。あと「和顔愛語(わがんあいご)」という言葉をみなさんご存じでしょうか。「和顔」は柔らかな顔、「愛語」は優しい言葉。キツい顔ではなく喋ろうと。この「和顔愛語」も単なる標語ではなく、分断しない言葉って何だろうかというところから生まれたもので。そうすると、「自然」の話に繋がってくるんです。
水野:なるほど。
野呂:つまり、自己中心的な人間の作為を超えたものが「いい言葉」なわけです。人間は優しい言葉のふりをして、内心は「傷つけてやろう」とか「騙してやろう」とか思ったりもする。そういう作為を超えたものとは、やはり自然界に発声する音であり、それが真実なる音声ではないかという話も出てきます。言葉は難しいけれど、言葉がないとあらゆるものと繋がれない。これは仏教にも繋がるなと思いながらお話を聞いていました。
何者でもないからこそ、何者にでもなり得る。
水野:「作為」をどれだけ削ぐのかって難しいですよね。野呂さんがおっしゃるとおり、作為のないものがいちばん届きやすいと思います。主語を自分にすることに発信側が執着すると、普遍的にはならない。主語の座席が「ここは誰でも座れるよ」という状態になっているほうが普遍的になる。でもそれをどう生み出せばいいかというと、また答えのない話で。
表現をしている時点で、作為は入ってしまうから。でもその矛盾を超える瞬間が、おそらく何度かあって。先ほどお話されていた「丁寧に紡がれた言葉」というものが、すごく大事な気がします。“我”だけで世の中を見るのではなく、他者から見えているものをどれだけ想像できるか。これがポイントだと意識しながら、僕は曲作りをすることが多いですね。
野呂:私はまったくの素人ですが、「特定のあるひとりを想像して、そのひとにメッセージを届ける」というものも歌としてはありますよね。
水野:はい。
野呂:そこにはどうしても思っている以上に自分が乗っていってしまう。だから特定のひとに対してしか伝わらない。すると、多くの他者を想定しながら作る、ということになるのでしょうか。
水野:そうですね。ただ、多くの他者を想定したときに陥りやすいのが、「お前の気持ち、俺はわかっているよ」みたいなおこがましい状態で。大衆の気持ちなんて、誰にもわからないんですよ。大衆という虚構も、個人がたくさん集まって、なんとなくできているものですし。大衆音楽というと、ひとりひとりの存在の生々しい重みを、見失ってしまいがちなので難しいです。
だから、僕は曲を作るとき、自分の属性を外していくことは気をつけています。もちろん全部を外すことはできないけれど。40代の男性であるとか、家族を持っているとか、いろんな僕についているものを外していった先で、「これはたとえ僕の気持ちであろうと、人間というソフトウェアだったらこうなるよね」というような本質に繋がる瞬間がある気がして。
一千年前の和歌になぜか僕らも感動できたり、共感できたりするじゃないですか。それは人間には「誰かを思うこと」が組み込まれていて、結局、一千年前も恋の話をしているから。古文をすぐに読むことができないとしても、みんなポップなものとしての本質は掴める。属性を外していった先の核の部分は、人間として繋がっているという捉え方をしています。
野呂:非常におもしろいですね。何者でもないからこそ、何者にでもなり得る。これもまた仏教に繋がり、「空思想(くうしそう)」という言葉があるんですね。「空」とは何者でもないこと。特定の実体は欠けている、という難しい言い方をするのですが。
たとえば、トランプのなかに1枚、何者でもないものが入っていますよね。ジョーカーです。ジョーカーは何者でもない。スペードでもダイヤでも何の数字でもないからこそ、逆に何にでもなれるじゃないですか。それが仏教でいう「空思想」なんです。つまり水野さんがおっしゃったように、属性を外し何者でもなくなることで、聴く側が自分を重ねられる。
水野:おっしゃるとおりですね。
作られたものって、“作られたものだけじゃない”。
― 今の時代、「多様化」という言葉がよく使われ、いろんなひとが増えていますよね。だからこそ昔より普遍性を突いていくのが難しくなっているところはあるのでしょうか。
水野:本質的には変わらないような気がします。100年とか、もっと長いレベルで超えていくという意味では、どの時代においても難しい。少し話がそれますが、「ふるさと」という唱歌がありますよね。<兎追いしかの山>というフレーズの。僕が受験生のとき、小論文のテストでこの曲を題材にした文章が試験問題として出たんですよ。
「ふるさと」
歌詞:https://www.uta-net.com/song/13892/
その論説文で書いてあったことが興味深くて。あれは100年前くらいの曲なんですよね。ちなみにこの教室で、山でうさぎを追ったことがあるひといます? さすがにいないですよね。なかなか現代では経験しない。だけど「ふるさと」を聴くと、なんとなく懐かしい気持ちになりませんか?そんな経験はしたことがないのに不思議だね、という話で。さらにその文章を読んでビックリしたんですけど、「100年前もみんな、そんなにうさぎを追ってなかった」らしいんですよ。
野呂:なるほど(笑)。
水野:というのも当時、鉄道ができ始めて。それまではその村で生まれたら、その村で死ぬことが当たり前だった時代のひとたちが村を出て、都市部に移動し始めたと。そして、近代化して昔の風景みたいなものがなくなりつつあったから、小学校の唱歌として「ふるさと」が生まれたそうなんです。「こういう景色があるんだよ」ということを書くために。
その文章を読んだとき、「あ、歌って怖いな」と思いました。要はどこかプロパガンダのように「こういう景色がある」という集合的無意識にちゃんとアクセスして、稼働できてしまうんだなと。でもやっぱり「ふるさと」のような曲が、普遍的な何かを誘うものとして存在しているんですよね。だからこそ、普遍的って難しいなというか。
野呂:実は「ふるさと」ではうさぎを追ってなかったって、おもしろいですね。つまり、ある意味フィクションで作られた架空のものが、現実化されていくというか。「みんなうさぎを追っていたよね」みたいな大衆の記憶になってしまう、ということですよね。
水野:はい。
野呂:フィクションが現実を作るというのは、歴史を勉強していても結構ありますね。たとえば「ふるさと」と同じく小学校ぐらいで習う、『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声」って言葉があるじゃないですか。「祇園精舎」って、インドに実在した仏陀が説法した場所なんですよね。これは実際にあった場所。ところが「鐘の声」って、これ実在しないんです。
水野:なるほど!
野呂:インドの祇園精舎に鐘は存在しなかった。だいぶ時代を経てから、中国のある坊さんが、「実は鐘があるんだ。ひとが亡くなるとその鐘が悲しい音を出すんだ」と言ったんです。でもその坊さん、実はインドに1回も行ったことがないんですよ。
水野:おもしろいですねぇ。
野呂:作られたものって、“作られたものだけじゃない”んですよね。私たちの記憶に残って、ある種の現実を作り上げていく。ちなみに私も、水野さんの歌をずっと聴かせていただいていて、水野さんの歌の風景でこの世界を見ていくことがあると思います。とくに上白石萌音さんに書かれた「夜明けをくちずさめたら」がとても好きで。
水野:ありがとうございます! 嬉しい。
野呂:この歌を寝る前とかに聴くと泣いちゃうみたいな。すると、夜から夜明けにかけてのあの風景を、私は水野さんの歌詞で見ていく。現実は必ずしもそうではないんだけれど、そういうことって起きていて。これは歌の持つ力であり、おもしろさだなと、水野さんのお話を聞いていて思いましたね。
水野:想像とか虚構を生みだせるからこそ“人間らしい”と思いますよね。正直、歴史も実際にどうだったかはわからないわけじゃないですか。資料から読み取って、「おそらくこういう事実があったであろう」と仮定して歴史が生まれていく。やっぱりどこか虚構性を帯びているものだと思うんですよ。自分の人生でさえ、記憶は改変されるらしいですし。都合のいいものだけを思い浮かべて、なんとなく「自分はこういう人間だ」という統一性を持たせて生きていく。フィクションがあると、そういうふうに生きていけるのかなって。
野呂:事実だけを追い求めても、実は全然おもしろくないですし。逆に事実を追い求めているつもりでも、もうすでに私たちはフィクショナルな世界に生きていたりしますよね。
龍谷大校友会「煩悩とクリエイティビティ」第8回
司会:田中友悟
登壇:野呂靖(龍谷大学心理学部准教授)
登壇:水野良樹
文・編集: 井出美緒 水野良樹
メイク:内藤歩
協力:龍谷大校友会
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