落語でも音楽でも「締める」が大事
わざと自分の出力を抑える
水野:落語家さんの場合、縦の繋がり、横の繋がりが密接にありますよね。しかも現場は基本的に、僕らの言い方だと“対バン”形式。他の落語家さんとの順番があり、序列があり、場の空気の作り方の作法があり。
吉笑:私は立川流という少し特殊な団体にいて、音楽の皆さんの言い方でいうと“単独ライブ”中心のスタイルなんです。2時間を使って、自分の3席でお客さんを楽しませるというような手法。一方、落語では寄席というところがあり、10人ぐらいで長い番組を作るようなかたちなんですが、それは対バンではなく、協力プレイみたいな感じですね。だから寄席に出る落語家さんたちは、順番によってはわざと自分の出力を抑えることもある。
水野:えー!
吉笑:自分が盛り上げすぎると、あとの邪魔をしてしまうから。だから日によっては、2番バッターの役割をしたり、4番でホームランを打ったり、というのを寄席に出る方々は日夜やられていて。それも見ていて強いですね。別に自我を全力で出さない日も気持ちよくやられるみたいで。立川流はどうしても自分の代表曲を出したくなるので(笑)。
水野:出力を抑えることってできるんですか?
吉笑:やっぱりネタ選びによりますね。すごく盛り上がるネタもあれば、じわじわ来るネタもあるから。あと「ネタがつく」といって、同じ種類のネタは避ける。楽屋にセットリストみたいに演目が貼ってあるのを見て、「タヌキのネタをやっている。じゃあ動物ネタはやめよう」とか。まだ出ていないカードで、後ろのひとが得意としているものを避けながら、かつ空気も下げ過ぎないように、お客さんの熱を保ちながら調節をされている。それはもう職人技です。でも立川流の「自分の代表曲で」というのも憧れます。同じネタでも、前のネタとどう繋げるかによって、まったく反応されないときもあるし。
水野:考えなきゃいけないパラメーターが多すぎないですか?
吉笑:多すぎる。音楽の場合どうですか?
わざと自分の出力「要所で一瞬だけグッと」
水野:出力を上げる下げるという話だと、盛り上がりすぎてみんなの気が散漫になっているとき「締めないと!」みたいなことはあります。
吉笑:ああ、「締める」って、我々も使う言葉です。落語会も基本は空気をほぐして笑ってもらうことが多いですけど、あまりにもドカンドカン笑ってもらうこと一辺倒だと散漫になるので、ドスの効いた啖呵などで空気を締めることがあります。同じように「締める」と言うんですね。
水野:先日、いきものがかりが武道館で弾き語りライブを行いまして。高校生のときに作った1曲をやったんですね。フォーキーでのどかな楽曲を、ベンチにふたり並んで。それはもう、「懐かしい曲をやってくれた」とコアなお客さんが喜んでくれて、「そこらへんにいる兄ちゃん姉ちゃんだな」って僕らを近くに感じてもらえて、あたたかい空気になって。
吉笑:うん。
水野:でもそのままだと、場がだれてしまう。だからその曲が終わったら、まったく違うタイプの、完全に打ち放つようなめちゃくちゃ心理的な距離の遠い曲をやって、クッっと空間を締めようと。これは日常的にやりますね。落語でも「締めるネタ」というものがあるんですか?
吉笑:あります。あと、すべて締めると重たくなっちゃうから、ポイントだけとか。たとえば、志らく師匠がおっしゃっていたのは、「人情噺(感動的な落語)をやるとき、どうしても気持ちを込めて熱演したくなるけれど、それだとうるさすぎる。要所で一瞬だけグッっとやったら、そのあともお客様はそういう情感で聞いてくれるから」って。
水野:大事な1ポイントだけ締めるって、それこそシンプルですよね。ただ、そこにたどり着くまですごく複雑。いろんな判断をするし。
吉笑:そうなんですよね。自分はまだまだ到達できない。余白を残したらスカスカになっちゃうし。水野さんも曲を作るとき、余白をどう残すかを意識されているんですよね。
音楽と落語との違いを如実に感じるのは…
水野:全部おいしいとよくないですからね。あと、これも落語に近いのかなと思うのですが、心が動く“主体”は受け取ってくれる側にあるじゃないですか。こちらがどんなに、「これおもしろいだろう」って言っても、そのひと自身がおもしろいと思わないと笑わないし。歌の場合なら、「いいな」って感動しない。
吉笑:うん。
水野:だから、たくさん情報を与えるのではなく、思い出す“鍵”だけあればいいのかなと思うんです。それによって聴き手のコアな感情に行きつく気がして。いちばん好きだったひとを思い出すとか。亡くなったひとへの悲しみを思い出すとか。そのために、基本的には「何も書かない」がベストだといつも思うのですが、どうしても書いてしまうんですよね。
吉笑:書くときは、具体的なイメージがあるんですか? 自分のきつかった気持ちとか、嬉しかった気持ちとか。
水野:作品になる前の原料はあります。その核は5年ごとぐらいに変わるんですけど。「世のなかがこうあってほしいな」とか、「こういうふうにひとを思いたいな」とか。でも出てくる先の答えは、その時々で違って。たとえば、“このドラマの主題歌をつくる”という問いに対して、この原料でどう向き合っていくかが大事だなと思いながら書いていますね。
吉笑:5年ごとに原料が変わるというのは、自分自身が変わるということですか?
水野:そうですね。人生が変わっていくじゃないですか。たとえば30代前半で息子が生まれたんですけど、するとやはりパッと視野が変わりました。世のなかも震災があったり、数年ごとに何かしら起こる。そういうタイミングで「あれ?」と思うときに、スコンッと原料も変わる気がしています。
吉笑:それはもう自分でわかる?
水野:わかります。「今までの考えが浅かった」と思う瞬間が来るというか。
吉笑:ガラッと変わる感じなんですか? 地続きじゃなくて。
水野:地続きではあります。最初は器のなかだけで考えていたのが、「うわ、外側も考えられるようになった」となり、さらに「いや、まだまだ広かった!」となっていくような。20代の頃は自分の人生しか生きてないから、「死んじゃったら終わりだ」というところから物事を考えていたんですけど、だんだんまわりで死ぬひとが出てきたり。
吉笑:はい。
水野:さらに、息子が生まれて、「意外と死んだあとも物語は続いていくんだな」と。
吉笑:なるほど。
水野:かつては「死」といっても、自分のことしか考えてなかった。だけど、自分が死んだあとも、自分の人生の物語は否が応でも続いていくと気づいた。すると「死」というひとつのテーマに対して、書けること広がり、全然違う歌ができていく。そういう地続きですね。
吉笑:なるほどなぁ。音楽はやはり鍵になれるところが強いですよね。そして聴き手が自由に思い出をひらいてゆける。あと、落語との違いを如実に感じるのは、音楽フェス。広い空間でバーンと演奏して、お客さんは風とか木々の揺れを感じながら曲を聴いて、それぞれ想いを馳せて、めちゃくちゃいいなと。
水野:たしかにそうですね。
吉笑:落語とかお笑いは、物語や意味を伝えるから、喋っていることに集中してもらわないといけないんですよ。そうしないと笑ってもらえない。
水野:あー、なるほど。
吉笑:実はめちゃくちゃ制約があるというか。それが落語の弱いところだなと思いますね。
文・編集:井出美緒、水野良樹
撮影:軍司拓実
メイク:内藤歩
監修:HIROBA
撮影場所:かんたんなゆめ
https://www.instagram.com/kantan.na.yume/
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