対談Q 世武裕子 第2回

見栄は一秒でも早く捨てた方が良い。

恥を晒してハッとしたい。


水野:『世武日記』はすごいね。ビックリしたよ。

世武:毎日、長くない?

水野:世武さんって、音楽も喋りも、わーって出すじゃん。だから、それは予想していたわけ。日記の情報量の多さに意外性はなかった。むしろ、そうじゃないと逆に怖いというか、世武さんらしい物量だなって。だけどあの文章って、論理の破綻があるようでないのよ。

世武:えー! 

水野:あれだけの物量を普通のひとが書いたら、もっと取っ散らかるよ。結構すごいことだよ。

世武:日記を書き始めて数日経ったとき、これはヤバいことをしているなと思ってさ。というのも、自分の本性を出しちゃうわけだから。言い方を悪くすると、「どうぞ批判してください」みたいなことを進んでしている。

水野:うん。

世武:でもそれはいいことだなと思ったの。たとえば、無意識のうちに、何かに対して差別心を持っていたり、正義だと思っていることで誰かを傷つけていたりして、そこを指摘されるかもしれない。それって名前を出してやっている分、すごく恥ずかしいことなんだけど、大きなチャンスでもあって。誰かに言ってもらうことでしか成長できないものだってあるし、だから恥を晒してハッとしたい。で、やっぱりDMとかもさ。

水野:来るんだ。

世武:来るの。「日記、読んでます」とか。今は否定的なものは来てないけどね。そこで肯定じゃないものがきたら、受け入れたい。どう肯定されるのかとかも知りたい。それで行きついたのは、やっぱり見栄は一秒でも早く捨てたほうがいいってこと。何をしていても、これしかないと思う。見栄の先にあるのは破滅の道しかない。

水野:見栄を得ようと思ったことはないの?

世武:いや、むしろ捨てたくて仕方ない。ずっと。

水野:でも、今ないじゃん。

世武:あるある。見栄ばっかりだよ。できることなら批判されたくない、とか。ちょっといい感じに見せたいって気持ちの危うさとか。日記を書いている途中でもよく、自分が見栄を張ろうとする瞬間に気づくと、すぐ修正するようにしてる。正しいプライドを正しい分量だけ持っていて、見栄のないひとなんてほぼ見たことない。でも理想としてはそうなりたいわけよ。それがカッコいいと感じるから。

『世武日記』の「いきものがかり論」

水野:なるほど。見栄を捨てると、自分の音楽にはどんな影響があるの? 音楽って難しいところがあって。結果、聴くひとが判断するでしょう。

世武:そうねぇ。

水野:ポップスなんて見栄の塊だと思う。「みなさんにいいと思ってもらいたくて」って言うと、綺麗な言葉に聞こえるけど、相手の主観に合わせていくことに近くなっていく。それって見栄と近いところにあるから。

世武:そこで手前味噌なんだけど、私が『世武日記』に書いた「いきものがかり論」を読んでほしい。ポップスにおける見栄とは何なのか、という話にも繋がると思うのね。

世武:私自身はやっぱりこういう生き方をしているから、「綺麗事は絶対に言いたくありません」って感じだし。性格的にもまず“逃げること”がいちばん嫌いだから、どんな悲惨な話でも突きつけられる方を選ぶ。だけどうちは家族で揉めていることが多くて、母親とは考え方が大きく異なるから長らく対立してきたんだけど。彼女は私とまったく逆のタイプで。ツラいことは聞きたくないから耳を塞いで、いいことだけ考えて生きていきたい人。

水野:うん。

世武:ただ、おそらく世の中はどちらかというと、母のようなタイプのひとが多いんだと思う。だからこそポップスというものの役割があるし、私と水やんの出口は違うのだなぁと思うのよ。だけど、そこの根源的にあるものってまったく綺麗事じゃないし、いきものがかりはその役割を引き受けているんだよ。あと聖恵さんのボーカルについても日記に書いたね。

水野:あれはねぇ…よく見えているなぁと思った。

世武:歌が上手いとか、声が通るとか、キャラが明るくて元気になるとか、多分みんなそこが好きだし、それでいいんだけど…。

水野:それは第一義的な楽しみなんだよね。彼女の明るさ、ミッキーマウス的な楽しさ。そこに在るだけで輝いて、華やかになって、かといって自分から遠くない、親しみを抱ける近さがある。それはエンターテイナーとして大事なことで。だけどもう一歩、奥に行ったとき、みなさんが曲を聴いて、自分の過去や現状に深く向き合わなきゃいけなくなったとき。そのときにこそ、彼女の歌声はポップスの意義を発揮して、匿名性を持つのよ。「ただそこにある歌」になってくれる。

世武:うん。

水野:あとライブのMCでも言ったし、最近よく思うんだけど、「究極的には俺らはいないほうがいい」って。ライブをやっている瞬間はああやってハッピーになるし、俺らがいることでその場の空気をプラスに繋ぎとめられることももちろん大事なんだけど。最終的には、そのひとが会場という非現実から家に帰って自分の現実に戻ったとき、何が残るかがいちばん大事で。彼女の声はそこに届きやすいんだと思う。ステージが終わったあとの、それぞれの孤独に。

世武:彼女の声もあるし、それが水やんを含めバンドの総意であるんだよね。「あなたの所有物になりたいです」って捧げることを異常に徹底していたわけよ。それにビックリして。

水野:もっとはっきり言っちゃえば「あなたの話だよ」って。

誰かに何かを把握されたくない。

世武:それも「究極的には俺らはいないほうがいい」って話だよね。「私の歌を聴いて! 楽しい! だからみんなも楽しいでしょ!」じゃなくて。もう捧げている身だから。そこが本当に私と決定的に違う。私は絶対に誰の所有物にもなりたくないし、誰かに何かを把握されたくないからひとりで生きているし。いや、もちろん人間はひとりでは生きていけないのだが。

水野:めっちゃ一気に喋る(笑)。

世武:ひとりで家にいることが好きだし、ひとりの時間が好きだし、ひとりで考えることが好き。それはいわゆる“ひとり好きキャラ”みたいなことじゃなく、もっと深いところにあって。たとえば些細なメッセージのやり取りとかでも、いろいろ質問されるのが嫌なわけ。すごいストレスなの。

水野:そうなんだ。

世武:私の解釈が間違っているのはわかっているんだけど、どうしても「このひとは私の何かを把握しようとしているんじゃないか」っていう気持ちが出てきちゃう。

水野:やっぱり俺たち近いね(笑)。俺は小さい頃から「水野ってこういうやつだ」って思われたり決められたりするのがとにかくずーっと嫌なんだよ。異常に嫌。徹底して嫌。

世武:へぇー! そこは似ているんだね。ちなみに水やんはなんで嫌なの? 心当たりは?

水野:わからない。なんでだろうね。

世武:だって、ふわっと聞いた話だと、家庭で何かがあったわけではないよね?

水野:ない。ドラマがない。家庭に欠損やトラブルはないし、わりと幸せを謳歌して成長してきたし、ずーっと決定的なものは起こらずにいる。だけどそのなかで、みんなから見えないところで、こぼれ落ちてゆく何かがたくさんあって。そして「常にマジョリティーの側にいる」って、「君はいいよね」って、言われ続けていて。

世武:なるほどね。

水野:で、高校生のとき、メロコアバンドとかが流行っていて。「この曲は俺らの気持ちを代弁している!」みたいな感じでみんなわーっと盛り上がっていたんだけど、俺は「全然代弁してないじゃん」って思っていたの。自分が好きな音楽でさえ、自分の味方ではない。自分が好きな音楽を「カッコいい」と言うコミュニティにさえ入れない。「君は別に幸せじゃん。頭いいし。優等生だし」って、音楽にも疎外されているみたいな。

世武:ああー。

水野:だから、誰も疎外しない音楽を作ってやろうって。ぶち壊すんじゃなくて、全員入れて、全員落とし込んでやろう、って感じに10代の頃はなっていたかな。

世武:その片鱗は見えるわ。多分そこが水やんとの分かれ道だと思う。

水野:やっぱり吉岡や山下に出会ったことが大きかった。歌うひとがあんな社交性の塊というか、街の有名人みたいな子だったから(笑)。それでこの道に進んだんだろうなって。ラッキーだったと思う。

文・編集: 井出美緒、水野良樹
撮影:LILNSY
ヘアメイク:枝村香織
監修:HIROBA
協力:広島アンデルセン

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