はっきりしないものを信じられる勇気は持っておきたい。
水野:企画展「HIROBA×文喫」の開催記念トークイベント。第1回のスペシャルゲストは、写真家の濱田英明さんです。

濱田英明(はまだひであき)
1977年、兵庫県淡路島生まれ。大阪在住。2012年9月、35歳でデザイナーからフリーのフォトグラファーに転身。
写真は“答え”ではない

水野:今回は「ふたりだけの読書感想会」という企画です。濱田さんに、ご自身の考え方や写真に影響を与えたなど、理由はどんなものでも構いませんということで、課題図書を1冊選んでいただきました。それを僕やみなさんも事前に読んだ上で、お話を伺おうという趣旨です。濱田さんがセレクトされたのが、梨木香歩さんの『家守綺譚』。この小説は摩訶不思議ですよね。たとえば、植物が語りかけてきたり。
濱田:そうですよね。
水野:いわゆる“あやかしの世界”に思える場面が多い。でも、日常的な空間が異化していくような瞬間に、見るひとの感覚が加わっていく。そういう点は、濱田さんの写真にも通ずる気がして。濱田さんは、まだ名前のついてない当たり前の光景を撮られていますが、その写真を拝見したとき、そこからまったく違う物語がスタートする感覚を僕も何度も味わったことがあります。改めて、なぜこの本を選ばれたのですか?
濱田:「オススメの本を教えてください」と言われたとき、必ずと言っていいほど、この作品を挙げるくらい大好きなんです。お話の舞台は、おそらく今から100~150年ほど前。今、水野さんが「あやかし」や「異化」といった言葉を使われましたが、それぐらいの時代まではギリギリそういったものが“当たり前”だったんだろうなと思います。サルスベリが主人公に恋をしたり。春になったら小鬼が出たり。こともなげに描かれていますよね。
そして、主人公は驚いている様子ではありながらも、それを捉える様はやはり“当たり前”のようで。「ああ、かつては普通のことだったんだな」と感じます。今、目の前で植物が動き出したら僕らはビックリすると思う。でも、それは100年ぐらいかけて、そういうものを感じ取る感性を失っていったからで。写真もまた、普段は見過ごしてしまっているものに気づく感性が重要なので、何か通ずるものはある気がしていますね。
水野:科学技術が発展して、「現実はこうである」という型が生活にインストールされた状態の現在に比べると、この本で描かれている時代は、対象に想起する物語の自由度が高かったと思うんです。僕たちも子どもの頃は、ぬいぐるみを友だちのように思う瞬間もあって、自分のまわりの世界にまつわる物語を、もっと自由につくりだしていました。
それが、合理性や科学的な正しさを知り、規定に収まる形で現実を認識することで、どんどん自由ではなくなっていく。濱田さんは写真を撮る上で、「この花はこうである」とか「このひとはこうである」という確定をせずに、もう少し曖昧なままで、自由度を保たれているじゃないですか。対象をどう捉えられているのでしょうか。

濱田:いきなり結論のようですが、「写真は“答え”ではない」と思っているんです。むしろ、「どう思いますか?」という“問いかけ”です。そこに正解も答えもありません。現代のひとはどうしても“答え”を知りたいじゃないですか。わからないものに対する恐怖や不安も大きいだろうし、わからないと「損をした」という感覚もある。
でも、そういうなかでも“わからないものをわからないままにしておく”ということは大事だなと。解釈の仕方は、撮った本人さえも決められない。だから、対象の捉え方も、あくまで僕の感性や思考がベースにはありますが、見ていただく方に手渡した段階で、解放していきたいです。
水野:写真を撮り始めた頃から、「写真は“答え”ではない」という姿勢だったのでしょうか。
濱田:ぼんやりとそう思っていました。写真に限らず、自分が作るものや表現することに対して、「こういうふうに見てください」と提示することは、あまり自分の生き方にそぐわないというか。あと、最初は子どもを撮っていたことの影響も大きいかもしれません。よく「写真でひと言」みたいなやつ、あるじゃないですか。
水野:大喜利ですね。
濱田:あれに近いと思っているんです。見ているひとが、ツッコミや自分なりのおもしろい視点を加えることで、写真が広がっていく。とくに子どもって、大人の想像を超えるような行動や振る舞いをしてくるから、ひとつの作品をいろんな捉え方ができますよね。そこを僕が閉じてしまうと、おもしろくなくて。見ているひとに余白を埋めてもらうことで、おもしろくなるんですよね。
パーソナルなものを撮るときの壁

濱田:あと、他人の子どもの写真を100枚も200枚も見ることって、日常的にはないじゃないですか。だからこそ、自分が子どもを撮るときに、「僕の子どもはこんなにかわいくて、おもしろいんですよ」というふうに見ていただくことはしたくなくて。パーソナルなものとパブリックなものとのあいだに壁があって。それだとそこにある壁を超えられない。では、どうするかといったら、その写真が“見てくれているひとたちのものになる”導線をこちらで作らないといけない。
水野:最初から、お子さんの写真というものすごくパーソナルなものを撮られたからこそ、不特定多数の方が見る作品になるときの壁に気づくことができたんですね。
濱田:最初からパブリックなものを撮っていたら、その視点には立てなかった気がします。
水野:子ども商品って、たとえばおむつとか、パッケージに必ずかわいい赤ちゃんの写真がありますよね。
濱田:ああ、たしかに。

水野:もちろんかわいいし、素敵に撮れている。だけど、それによって、我が子の写真を見るときのような感情になることはないんですよね。熱が入らない。僕という素人が下手くそに撮った自分の息子の写真のほうが、撮った僕自身とか家族だけにとっては、グッとくる。でも、赤の他人からはそうは思われない(笑)そこはパーソナルなものとパブリックなものとの間にある、大きな溝かもしれませんね。あと、パッケージの写真はそれこそ、「子どもはこういうもの」という答えの提示である気もして。
濱田:パッケージ写真、広告写真のようなものは、機能説明がありますもんね。写真が“問いかけ”だとしたら、デザインこそ“答え”だと思うんですよ。たとえば、トイレのマークがわかりにくかったら混乱するでしょう。
水野:おしゃれすぎて困ることありますね(笑)。
濱田:デザインは、最速最短距離で情報伝達できる状態になってないと、秩序が乱れるわけです。そういう意味では、写真とデザインって正反対なのかもしれません。そして今、おむつのパッケージは写真とデザインが結びつくことで機能しているわけですが、より“伝達する”ほうへ向かっている。
だからこそ、僕も仕事での自分の思考の取り入れ方はものすごく悩みますね。たとえば、僕がおむつ広告の写真撮影を頼まれたら、どうやって今までと違うものにするか。もしくは、どうやって少しでも“みなさんのもの”になる写真にするか。そう考えると非常に難しくて。でも、そこに関しては水野さんがすごいじゃないですか。
水野:いやいやいや。
濱田:いきものがかりというアーティストは、いかに自分のパーソナルな部分を、パブリックなところに届けていけるか、ものすごく考えて、努力して、葛藤してきているはずなので。届けていく先の大きさも、僕とはまったく違うし。それが数字という形でもちゃんと表れているし。逆に、どうやっているのか訊きたいです。
水野:パーソナルなものを突き詰めていけばいくほど、「みんなそれを言っているよね」という普遍的なものに近づいていくような感覚がありますね。どんどん平坦になっていく。そして今は、誰でも使っている言葉で、誰でも書けそうな歌詞だけれど、誰でも書けるわけではない歌が理想だなと思っています。写真でいうと、誰でも撮れそうだけれど、誰でも撮れるわけではない作品ですね。
たとえば、僕が清志まれ名義で書いた小説『おもいでがまっている』の表紙を濱田さんに撮っていただいて。あの建物を写すだけであれば、みなさんできるじゃないですか。濱田さんも、「5歳の子どもが撮った写真がいいこともある」とおっしゃるし、“誰でも撮れること”に対する誠実さを持っていらっしゃる。でも、やっぱりあの表紙は濱田さんじゃないと撮れないんですよ。濱田さんの考えや経験があるからこそ、収められている光の感覚、空気感、時間、僕らが物語を重ねられる余地がある。歌もそういうものになってほしいんですよ。
『おもいでがまっている』/清志まれ
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163916736
「愛しています」という言葉にメロディーを乗せることって、誰でもできると思うんです。だけど、実はAさんとBさんとCさんがいたら、それぞれの「愛しています」の意味合いはまったく違って。もしかしたら、僕が死んだあとに生まれるひとの「愛しています」は、もう愛の形も変わっているのかもしれない。それらすべてを重ねられる「愛しています」を書くのは、とても難しい。そこについていつも考えているのですが、濱田さんも同じなんじゃないかなと。
「見たことはないけれど、知っている」

濱田:ものすごくわかります。当たり前で普遍的で日常的なありふれたものこそ、遠いところに持っていくのが難しいと思うんですよ。僕は、写真を撮るときに意識している4つのポイントがあって。「知っている」と「知らない」、「見たことがある」と「見たことがない」、この組み合わせで考えています。
たとえば、「知らないし、見たことがない」という組み合わせがあるとしたら、それは絶景みたいなもの。誰もまだ見たことがないし、撮ったことがないという状態。そして、「知っているし、見たことがある」という組み合わせだと、“東京タワー”とかがわかりやすいですかね。みんななんとなく知っているし、東京タワーを見上げたような写真も見たことがあるじゃないですか。僕は、そういう絶景やみんなが同じように撮る風景は撮らないんですよ。
自分が撮ろうとしているのは、みんなが「見たことはないけれど、知っている」という組み合わせのものです。それって、日常にしかないと思います。僕らが安全な状態で、安心して見ることができる何か。生活をしている半径数メートル以内にある何か。つまり、ずっと視界のなかにあったはずだけれど、あえてそこにはフォーカスしていなかったようなものを撮りたいんです。視界あったのに見落としていた、そこにあるギャップこそが、それぞれの記憶や経験と結びつく余白になるんじゃないかなと。
水野:その濱田さんの写真を僕が見たことによって、「見たことはなかった」ものが「見たことある」ものに変わっていきますよね。でも、その過程に自分の意思がないと、そこにはたどり着けない。必ずそのひとの主観が出てくる。そうやって主観が出てくることが、大事ですよね。
濱田:そうですね。僕の個人的な経験や記憶を見てほしいわけではなく、「私はこう思います」というものを、それぞれ立ち上げてもらえることが大事。そうやってみなさんが記憶や経験、思い出、時間の感覚を結びつけるためのきっかけを、こちらであらかじめ用意するような感覚だと思います。だからこそ、「知っている」と思ってもらえるものを差し出すところに苦心しているというか。
水野:「答えを求められる」という言葉と近いと思いますが、最近は「見たことがあるし、知っているもの」を求められがちじゃないですか。そこにどれだけ熱狂できるか、ということばかりになっている。それは現代のウィークポイントかもしれませんね。

濱田:悲観的なことを言うと、もうあと戻りできないところまで来た気がしていて。個人の力ではどうにもならないことが多すぎるから。たとえば、地殻変動や気候変動、疫病、戦争。そういうなかでは、不安を解消してくれるわかりやすい何かにすがりたくなりますよね。救いを求め、安心したい気持ちはみんな一緒。でも、こんな現代だからこそ、はっきりしないものを信じられる勇気は持っておきたい。その感覚を失いたくない。
水野:最近よく思うのですが、怒りを駆動する言葉と同じくらい、それに対する、「そんなことを言わないで、こういう言葉を使おうよ」という優しい言葉も溢れているんですよね。一見、後者のほうが綺麗に見えるけれど、実は同じことで。本来、感情は個別なものであり、自分で語り出さなきゃいけないのに、極端なほうに合わせようとしていくわけです。「これが正義だ」とか、「これが優しさだ」とか、自分の感情を投げ出して、誰かが規定した言葉に委ねている気がする。
音楽はプロパガンダにも使われたような存在なので、もっとも人間の感情を奪いやすく、非常にリスキーであるもの。だからこそ、僕はそれをやりたくなくて。「あなたが主人公なんですよ」「あなたが主格なんですよ」ということをなんとか成立させたいし、それが今の社会における自分の使命である気がするんです。そのスタンスでいるのは、とても難しいんですけどね。曖昧にも、優柔不断にも、「何も書いてない」ようにも見えますから。
そういう視点でいうと、『家守綺譚』って、ものすごく日常じゃないですか。映画で観るようなドラマティックなことはほとんど起こらない。劇的な戦闘シーンも、大きな悲劇も、腹を抱えて笑うようなこともない。でも、豊かさが凄い。主人公の想像力も、体験も、物語を通して、ずっと豊か。これは今、なかなか成立しにくいことであるからこそ、おもしろいなと思います。「あれ?」って何か気づかされるような気がするというか。
濱田:そう、気づきであり、本当はみんな持っているはずの感覚だと思います。いつのまにか失ったり、閉じたりしてしまっていたものが、この本を読むとパッとひらく。現実的な問題が大きすぎる現代で、“そうではない世界”もちゃんと、自分の心の隙間に持っておくことは大事かもしれないと、気づかせてくれた作品ですね。

文・編集:井出美緒、水野良樹
撮影:軍司拓実 谷本将典
メイク:内藤歩
監修:HIROBA
撮影場所:文喫 六本木
https://bunkitsu.jp/
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