“意味”になることと“意味”にならないこととの境目について
<願いに甘えず>とは
水野:僕は飯間さんのX(旧:Twitter)を拝見していて、ぜひお話を伺ってみたいなと思っていました。年末、紅白歌合戦が放送されるとき、飯間さんは辞書の編纂者という立場から、様々な楽曲の歌詞を読んで、新しい言葉を見つけたり、新しい用例を挙げられたりしているんですよね。
飯間:ええ、もう10年ぐらい前から。はじめは遊びというか、「紅白でも観ながら…」という感じで、注意を引かれた歌詞や発言を書きとめて、SNSで発信していたんです。用例採集と言うんですけど。あわよくば、辞書の資料になればと思いました。すると、それをおもしろがってくださる方がいて、やめるにやめられなくなったんですよ。
飯間浩明(いいま ひろあき)
国語辞典編纂者。香川県出身。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』など。
水野:僕らの歌詞も取り上げていただいたときがあって。
飯間:実は今日も、水野さんが作詞をされた歌をいくつか持ってきました。
水野:本当ですか!
飯間:今回のテーマのお役に立つかわからないんですけど、いくつか「こういうところに注意を引かれました」という例をご紹介したいと思います。私のSNSを見た人の中には、「歌詞を批判しているんじゃないか」と思う人もいるかもしれませんが、決してそうじゃない。100%おもしろがって、その言葉を集めているということだけ、お断りをしておきますね。
水野:はい。
飯間:このあとの「“意味”とは何か、“言葉”とは何か」というお話にも関連するかもしれません。たとえば、昨年お出しになった「声」という楽曲に<願いに甘えず がんばってきた これまでの日々は ただしい 信じろ きみは強いよ>というフレーズがありますね。
「声」/いきものがかり
歌詞:https://www.uta-net.com/song/346952/
水野:なんか恥ずかしいです(笑)。
飯間:ご本人の前で読み上げたりしてすみません。これは、スポーツ選手なのか、受験生なのか、ひとりで頑張っているひとに対して、「かがやくきみを私は応援しているよ。この声が聞こえていますか?」という応援歌でしょうか。そのなかの<願いに甘えず>というのはちょっと詩的な言葉ですよね。日常語で「お前は願いに甘えている」という言い方はしない。そこで、「どういう意味だろう?」と考えるわけです。
水野:はい、はい。
飯間:水野さんに正解を伺いたいということではなく、私の解釈です。「甘える」とは、たとえば、「俺はこういう大きな願いを持っているんだから、協力してくれてもいいんじゃないの?」という周囲への甘え。そういう状況がイメージされる。だけど“そういうことをきみはしなかった”わけです。日常語で言い直すと長くなってしまうことを<願いに甘えず>という短いフレーズに収めている。これは技ですね。
水野:わー、ありがとうございます。
飯間:歌詞を細かく観察すると、ごく普通の言葉、日常語を使って書いているように思える箇所でも、「日常語そのままではないな」という発見があります。
水野:種明かしをすると、通常の会話のなかで「願い」という名詞に対して「甘える」という状況ってなかなか存在しないじゃないですか。だけど「願い」も「甘える」も非常に易しいというか、平易な言葉で。
飯間:ひとつひとつの言葉はそうですね。
水野:その平易な言葉を合わせて、違うイメージを起こすということを、なるべく歌のなかでしたいと思っているんですね。そして、飯間さんが今おっしゃってくださったような解釈、さらに言えば、「目標を持っているから自分は素晴らしい」みたいな、安易な自己肯定の在り方に、どこか甘えなり、驕りなりがあるのではないか。そんなことを上手に、易しく伝えられないかな、と歌詞を組んでいきました。
飯間:「“俺はすごいぞ”とうぬぼれるようなことをきみはしなかった」というと、詩じゃなくなる。
水野:そうなんですよね。詩って抽象的なものや、普段はない組み合わせをあえて使うということを常にやっていて。でもその組み合わせが、いつの間にか多くのひとにとって普段のものになっていたり。ひとつの意味として捉えられているものが、あるとき、その意味ではなくなったり。別の意味が加わったり。そういう変化を飯間さんはたくさん見つめていらっしゃるような気がして。
飯間:ええ、関心を引かれますね。
水野:では、その“意味”になることと“意味”にならないこととの境目を、どうやって判断されているのか。そういうところをお伺いしていきたいなと。
“意味”ってわからないんです
飯間:「“意味”と“意味”でないものの境目」というテーマを事前に伺って、「これは難しいぞ」と思ったんです。そもそも“意味”とは何か、ということがわからないと、“意味”でないものとの境目もわかりません。そこで、いきなり抽象的で根本的な話になってしまうんですが、今回お話しする“意味”とは何かについて、ちょっとだけ考えてみてもいいですか。
水野:もちろんです。
飯間:私は学生の頃から「“意味”って何?」と疑問に思っていて、「意味論」と言われる分野の本も読みました。そこで学んだことによると、要は…“意味”ってわからないんです。
水野:はい。
飯間:いろんな学者が「“意味”とは~」と言っていながら、みんな実体を掴めていない。ある学者は、「“意味”とはイメージだ」と言うんです。目をつむったときに見えるイメージが“意味”だと。つまり、「家とはどういう意味ですか?」と聞かれたら、「あなたが目をつむったときに見える家のイメージが、家の意味ですよ」ということですね。でも、それってひとによって違いますよね。
水野:そうですね。
飯間:私はマンション住まいですが、マンションは「家」なのかな。むしろ、一軒家のほうが「家」っぽいかもしれないですね。ともあれ、目をつむれば自分なりの「家」のイメージは浮かぶかもしれない。じゃあ、たとえば、「寛大とはどういう意味ですか?」と聞かれたら、目をつむっても「寛大」が見えてこないんですよ。
水野:物理的に見えてこない。
飯間:だから「目をつむって見えてくるものが意味」というのは、何か違う気がする。
「水」の意味は「H2O」なのか?
飯間:また、別の学者は「“意味”とは定義されたものだ」と言います。「水とはどういう意味ですか?」と聞かれたら、水の化学的な定義は「H2O」ですから、そのまま「水の意味はH2Oです」という説明の仕方もある。
水野:はい。
飯間:ただ、それだと、「今日は暑いから水が飲みたいな」というとき、その「水」は「H2O」なのか? という話なんですよ。お風呂の水でも何でも持ってくればいいわけではない。冷たいとか、氷が入っているとか、そういうものが飲みたいんです。となると、「定義されたもの」が“意味”というわけでもない。“意味”についての説はまだいろいろあるんですが、結局、掴めきれていないんですよ。
水野:なるほど。
飯間:もっとも、一般のひとびとは、辞書に書いてある①、②、③…の説明を指して“意味”と言うことが多いかもしれませんね。これも厳密には“意味”ではなく、主な用法の説明にすぎないんです。でも、話をわかりやすくするため、今回は辞書の①、②、③…で説明しているようなものを“意味”ということにして、話を進めていきましょうか。
文・編集:井出美緒、水野良樹
撮影:谷本将典
メイク:内藤歩
監修:HIROBA
撮影場所:本屋 B&B
https://bookandbeer.com
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