フラットな付き合いで、しっかりサウンド構築を支えようというスタンス。

J-WAVE『Samsung SSD CREATOR'S NOTE』
https://www.j-wave.co.jp/original/creatorsnote/
“いま”を代表するクリエイターをゲストに迎え、普段あまり語られることのないクリエイティブの原点やこれから先のビジョンなど、色々な角度からクリエイティビティに迫る30分。J-WAVE(81.3)毎週土曜日夜21時から放送。
水野:今回のゲストは、作曲家で音楽プロデューサーの本間昭光さんです。本間さんに初めてお会いしたのは2009年、いきものがかりの「なくもんか」という楽曲をプロデュースしていただいたところから。2010年には全国ツアーも一緒にまわっていただき、そこからずっとお世話になっております。

本間昭光 (ほんまあきみつ)
1964年生まれ。作曲家・キーボーディスト・プロデューサー。1988年 「マイカ音楽研究所」に入学し、松任谷正隆氏に作曲アレンジを師事。1989年、上京と同時に「ハーフトーンミュージック」に所属。これまでにポルノグラフィティへの楽曲提供やトータルプロデュース、いきものがかりのサウンドプロデュースほか、さまざまなアーティストを手掛け数々のヒット曲を生み出す。2023年『日本レコード大賞』にて編曲賞を受賞。さらに同年、自身のプライベートスタジオ「FORCE RECORDINGS」を立ち上げ、創作活動にさらに力を入れている。2025年9月26日、27日には、
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「お前、東京に来る気あるか?」のひと言で…
水野:改めて原点をお伺いしたいのですが、最初に音楽に興味を持ったのはいつ頃ですか?
本間:幼稚園の頃ですね。昭和40年代というと、子どもをオルガン教室に通わせることが親のステータスのひとつでして。やはり僕も通っていて、練習しているうちに「楽しいな」と。やがてピアノに移っていくのですが、ハノンやバイエルを弾き続けているとつまらなくて、小学校3~4年生以降は怠けるようになり。それぐらいから、日本のポップスや洋楽に触れる機会が増えて、いろんなジャンルに興味を持ち始めていきました。
水野:音楽以外のものには興味は持ちませんでしたか?
本間:いや、楽しいものは何でもやりたい子どもでしたよ。スポーツ、野球もしていましたし。近所の川に行って、腰までつかって魚をすくったり。山に登って、昆虫採集をしたり。“昆虫博士”なんて呼ばれていました。もう今は絶対に触れませんけどね、虫(笑)。

水野:やはり昔から好奇心が旺盛だったのですね。そして、そのなかで音楽が中心になっていった。
本間:中学の頃、ブラスバンド部に入って、フルートを担当していたんですけど、「あ、合奏って楽しいな」と。だけど高校に入ったら、ちょうどその年にブラバンが潰れてしまって、軽音楽部しかなかったんですよ。それで軽音に入ったのが、バンド活動の始まりでしたね。
水野:そこで自己表現のほうには行かなかったのですか?
本間:ジャンルを問わず、音の構成が好きだったんですよね。なかでも当時のLA系の響きが好きで。日本を見渡してみたら、山下達郎さんや松任谷由実さん、松任谷正隆さんなどの作られているサウンドが心地よくて。のちに武部聡志さんとか、次の世代の方も出てこられるんですけど、ずっとその系譜を見ていて。「どうやったらこんな心地よいサウンドが作れるんだろう?」と思っていた中学、高校時代だったんですよね。
水野:いつ頃から、プロになろうと思われたのでしょうか。就活もされていたんですよね。
本間:普通に就職したくて、内々定もいただいていました。でも当時、思い出づくりのような感覚で、松任谷正隆さんの学校に週1で通っていて。土曜に大阪から夜行バスに乗って東京に行き、日曜に編曲のレッスンを受けて、また夜行バスで帰るみたいな生活だったんです。そうしたらある日、松任谷さんに呼び出されて。「お前、東京に来る気あるか?」と訊かれて。そのひと言で、人生が変わりましたね。こんなチャンスは二度とないと思って、「はい、もちろん」と即答しました。
水野:具体的なビジョンはあったのですか?

本間:何もないです。松任谷さんから、「じゃあ、武部(聡志)のところを紹介してやる」とは言われたけど、それが何の意味を持っているのかもわからなかった。でもとりあえず上京しないと勝負にならないなと思って、無理やり来ました。当時はバブル期でしたから、就職したみんなはお金もあって日々を謳歌しているわけですよ。それに対して、自分は極貧生活(笑)。ただ、そのなかで武部さんのスタジオ仕事を一緒にまわって、とても刺激的な毎日で。
水野:見て覚えろ、というような。
本間:そう、教えないから盗めという形。現場を目にして、「ああ、こうやってできあがっていくんだ」と学んでいきました。自分の想像よりはるかにスピード感があって、内容も濃くて、専門用語は全然わからない。それで武部さんにいちいち意味を訊いては、「そんなことも知らないのか」と言われて(笑)。結局、そういう経験の仕方が僕にとってはいちばんよかったんじゃないかな。
水野:どうしたら自分が音楽の世界で生き残っていけると考えていらっしゃいました?
本間:当時、ハーフトーンミュージックに所属していたんですけど、まず“演奏が上手い”のは当たり前の時代だったんです。あと、みんな段違いの音楽的な素養を持っていた。だから、何よりいろんな音楽を聴くことからスタートしようと思いました。音楽理論はその後でいい。それで、いろんな方からCDを借りたり、CDショップの視聴機でヘッドフォンをつけて、もう何時間もそこで聴きまくったり。そうやって勉強を重ねていきました。
水野:武部さんの現場では、とくにどんなことを学ばれました?
本間:組み立て方ですね。レコーディングの進め方というか。リズムを打ち込むことから始まるのか、譜面を書いて生のミュージシャンを呼ぶのか、ジャンルによってまったくプロセスが違いますから。当時は、指示の仕方ひとつでへそを曲げるミュージシャンも多くて、難しかったですよ。でも、その厳しさがよかった気もします。
編曲がアーティストの人生を握っている

水野:そして30代に入ってから、ポルノグラフィティの皆さんと出会っていかれるわけですが、本間さんにとって作曲はどのようなものだったのでしょう。
本間:10代終わりのアマチュア時代、バンドを組んで作曲はしていたものの、「編曲家になりたい」と東京に出てきたので、作曲家の方々とはまったく別の距離感で制作をやっていたんですよね。でも、ポルノグラフィティと出会ったとき、あいだを取り持ってくださった方から、「曲書いてみない?」と言われて。僕はそれまでもう何百曲とアレンジばっかりやっていたので、いろんな方のメロディーのポイントを死ぬほど聴いていたわけです。
水野:なるほど。多くの情報を得ている状態だったのですね。
本間:大御所の方が、「ここがポイントなんだよね」とか教えてくださったりもして。そうやって、デモテープに必要なポイントなど、いろんなことを学んでいた。だから、「ポルノに書いてみませんか?」って言われたとき、抵抗なく受け入れて、書き始めました。
水野:実際に曲がヒットしていくわけですが、編曲での成功と、作曲での成功とでは、感覚として違うものがありましたか?
本間:オリコン1位は、編曲で取ったことがありましたが、作曲で取れるとは夢にも思ってなかったんですよ。それが取れてしまうことになったとき、ポッと出ならもっと興奮していたと思います。でも、下積みが長かったので、わりと冷静に受け止められましたね。それよりも、「ポルノグラフィティがどうやったら生き残っていけるか」ということばかり考えていました。だから、評価とか売れたとかに対して実感がなかったのかもしれません。
水野:本間さんはどうしてどのプロジェクトにも、ものすごい熱量を持って取り組めるのでしょう。
本間:編曲という長いプロセスがあるのは日本独特で。しかも、声や曲、メロディーを、生かすも殺すも編曲次第のところがある。ということは、そのアーティストの人生を握っている。評価にダイレクトにつながる作業をやっている。そう思うと当然、適当にはできなくて。あと、もう完全に編曲作業が好きなんですよね。編曲して磨き上げて、ミックスも細かいところまでこだわる。だからこそ、今の自分がいるんじゃないかなと思います。

水野:本間さん、詞先で作ることもありますか?
本間:詞先、大好き。
水野:曲先と何が違います?
本間:詞先は、言葉のイントネーションからメロディーが想起できるから、やりやすい。曲先でやると、どうしても4の倍数に収まってしまうじゃないですか。せいぜいBメロに2小節足すぐらい。だけど詞先は、Aメロの3小節とか、奇数小節が平気で出てきて、そこに引っかかりが生まれる。意外と詞先で作ったほうが、自分の違う面が出せるのかもしれません。
水野:詞先の場合、どうやって曲を書きますか?
本間:世界観が見える感じで。この風景にはどんなサウンドが合うか、どんなメロディーが合うか、どんなテンポ感が合うか考えます。たとえば「朝」なら、バタバタしているのか、ゆっくりモーニングコーヒーを飲んでいる感じなのか、いろいろありますよね。その設定によってすべてが変わります。
水野:メロディーを書かれるとき、アレンジも浮かんでいるのですか?
本間:いや、浮かんでいないです。曲作りのときには、簡単な和音のコードと、ベーシックなリズムを考えるくらい。アレンジをやるときには、いったん頭のモードを切り替えるんですよ。
水野:まったく見る目が変わるんですか?

本間:はい、メロディーを書いた自分とは他人になる。思いが入りすぎるとダメですね。だからシンガーソングライターで、自分でアレンジもされている方、本当にすごいと思います。たとえば、90年代に槇原敬之くんのレコーディングを見ていても驚きました。彼はオケを先に作って、できあがるまでメロディーがわからないんです。
水野:槇原さんの頭のなかにはあるんですね。
本間:そう。横で見ている側は「これはどういう曲なの?」と思っているわけですけど、槇原くんは、「じゃあ、最後に仮歌を入れるわ」といきなり歌い出して。「こんな曲だったんだ!」って、いつもおもしろかったです。
水野:本間さん、作詞はなさらないんですか?
本間:何度かトライしたんですよ。ポルノでも書いたことがありますけど、大変ですね。気恥ずかしさが立ってしまう。あと、ボキャブラリーが少ない。ポイントとなる言葉選びは、本当にセンス次第で、自分にはそっち系のセンスはないな、と。よっちゃんみたいにバンバン書けないです。
水野:いやいや、僕も書けてないですよ(笑)。
本間:めっちゃ書いているじゃない! すごいなと思う。
基準を未来に置いて

水野:プロデュースなさるときには、アーティストのどこを見ますか? たとえば、「新人アーティストのライブを観てくれ」と言われたときなど。
本間:やっぱり声。そして目力。わりと貪欲なほうが好きだし、強く意思を持って歌っているかを見ます。あと、表現がオーバーなひとは、自分の手に負えなくなる可能性もあるなと考えます。とはいえ、セッションしてみないとわからないんですけどね。もちろんみなさんに可能性を感じながらやっていますが、ファーストセッションで、“次が見えるひと”か、“今回を一生懸命やるほうがいいひと”か、どうしてもそこでわかれていきます。
水野:いきものがかりはどうでした?
本間:実際に出会う前から、活動を知っていましたし、僕が司会の番組でも取り上げていたので、「よくこんなに次から次へとメロディーや歌詞が出てくるな。声も強いし、すごい」と思っていました。その上でのアレンジオーダーでしたので、自然に入ることができた気がします。僕は島田昌典さんのアレンジが大好きで、島田さんとみなさんが作ってきた系譜がすでにあるから、それは絶対に崩さないようにしつつ、自分の色を残そうと。
水野:関わるアーティストのみなさん、変化をしていくじゃないですか。そのあたりは本間さん、どう見ているのでしょう。

本間:人生ですから、みなさんいろいろ歴史がありますよね。家庭を持つこともあれば、挫折をすることもある。喜びも苦しみもある。そして、それらをアーティスト活動に反映される方が多い。そういうすべてを傍目で見ている自分は、とくに気持ちを左右されることなく、フラットな付き合いで、しっかりサウンド構築を支えようというスタンスでいます。もちろん、みなさんの悩みや苦労などはわかった上で。
水野:リスナーのみなさん、これがすごいんですよ。僕らが独立しても、放牧しても、山下が離れても、現場に行くと、いつもと変わらない本間さんが待っていてくれる。すべて受け止めてくれる。それは僕らにとって、非常に大きなことなんですよね。本間さん、これからの目標はありますか?
本間:もっといろいろ新しいことをしたい。だから新人とか、まだあまり名が知られていない方でも、みなさんDMをください(笑)。
水野:では最後に、これからクリエイターを目指すひとたちにメッセージをひと言お願いします。
本間:自分のやろうとしていることを、もう本当に好きになってほしいです。一方で、「違うな」と思ったら、スッと乗り換える勇気も必要。でも、脂汗が出るぐらいまで、絞り出して、好きになって、どこまでできるか。そういう自分との闘いだと思います。「ああ、できあがった」と安心したらダメ。基準を未来に置いて、「何十年後かに聴いて、恥ずかしくない作品になっているかな?」と思いながら作ることは、大事ですね。



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文・編集:井出美緒、水野良樹
写真:谷本将典
メイク:内藤歩
番組:J-WAVE『Samsung SSD CREATOR'S NOTE』
毎週土曜夜21時放送
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