誰のものかわからなくなることで、普遍になっていく
聞き手が言葉を横取りしてはいけない
水野:やはり今日、お話させていただくなかで何度も立ち返るのは、一瞬名前が外れる時間のことで。匿名性をおびる時間。生活のなかで、生きていくなかで、自分とまわりのひととの関係のなかで、いつのまにか作られる位置からちょっと外れることによって、人間が楽になるのか、少し力が抜けるのか。そのお話がずっと続いていて。詠み人知らずの話もそうだし。書いた人間と書いたものの紐づけ。自分を縛っているものが緩まるとみんな楽になる。でも、その緩め方が難しい。
鷲田:だから他人が要るんでしょうね。自分を漂わせたままでいるって、不安で怖いじゃないですか。だって自分がひょっとしたら壊れてしまうかもしれない。緩みっぱなしになって、二度と自分としてまとめられないところまで行ってしまうかもしれない。そんな怖さがある。そういうときに、聞いてくれるひと、相槌を返してくれるひとがいるのが、みんなで語り合うことの意味かなと思います。
鷲田:ただね、友だちとか相談相手っているじゃないですか。話をよく聞いてくれるし、よくわかってくれるように思えるひと。たとえば、僕が言い淀んでいるとき、「こういうことが言いたいんじゃないの?」とか「こう思ったんじゃないの?」とか言ってくれるひと。こちらはそれに飛びつくわけです。
水野:はい。
鷲田:でも、その聞き方ってヤバいなと思っていて。つまり、本来は僕が必死で苦しんで、物語らないといけない部分を代わりに物語ってくれるから、僕は楽になれて、乗っかってしまう。その瞬間はすごく感謝するんですよ。「ああ、こいつ本当に俺のことよくわかってくれている。よく見てくれているな」って。だけど自分でそこにたどり着いていないから、彼がいないときに同じ状態に陥ったら、元の木阿弥になってしまうということがあってね。だから聞き手が言葉を横取りしたり、物語をつくって返してあげたりするのは、本当に危ないなって。
水野:あぁ…。
鷲田:相手がうまく言葉にできなくて苦しんでいるとき、聞くほうもしんどいんですよ。沈黙もしんどいし。だからつい言葉を迎えに行ってしまう。でもそれは根本的な解決にならないんです。とにかく結論を出さないまま聞いて、「そんなふうに思うのかぁ」とか返してあげるほうが大事なのかなと思います。親子でもそうですよね。親が子どもに面と向かって、「何を悩んでいるの?」とか聞いても、なかなか子どもは言いにくい。だけどお母さんがキッチンでまな板に向かっているときとか、家計簿をつけているときとかに、肩越しに「あんなぁ…」って。横からボソボソ言うシチュエーションだったら、子どももちょっと話せたりする。聞いていないふりして、本当は聞いているぐらいのさりげない感じが、話すほうとしてはいちばん楽なのかなって思います。
水野:まさに鷲田さんの著書『「待つ」ということ』と『「聴く」ことの力』に関わってくるところだと思うんですけど、待つのってすごく難しくないですか。
鷲田:その「待つ」と「聴く」を繋ぐものは「時間をあげる」ことでしょうね。急かさない。「いいよ。しばらくそばにいるよ。もし何かあったら言ってくれてもいいし、言わなくてもいいし」って。ケアの力ってそういうものなのかなって。
「この場所、力あるなぁ」って感じる理由
水野:僕は『「待つ」ということ』に出てくる、西川勝(※)さんの「パッチング・ケア(※)」のお話がすごく印象的で。なんとなしに起こった小さなケアの積み重ねが解決させていくみたいな。
西川勝 1957年生まれ。看護師をしながら臨床哲学の活動に参画し、ケアの哲学を模索する。元・大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任教員。NPOココペリ121理事。
パッチング・ケア 「ケアと言うことさえはばかられるような些細な行動の「つぎはぎ」によって」なりたっている現実のケア。(鷲田清一『「待つ」ということ』より)
痴呆のために施設に入所している人が、「もう、わたし、帰らせていただくわ」と迫ってくる場面……。ぼくは、彼女を説得しようなどとは思わない。ぼくひとりの答えで、彼女が満足するはずはないと思っているからだ。けれども、仕事を終えて、夜勤の仕事には手を出す必要がないのだから、にっこり笑うことぐらいはできる。しかし、彼女が笑い返してくれるところまではいかない。夜勤者も「お食事ですよ」と誘ってくれた。でも、その誘いも耳に入らないようだ。まあ仕方ない、どこか座る場所でも見つけようと思っていると、他のお年寄りに面会に来ている家族さんが、「ご一緒にどうですか」と声をかけてくれた。スタッフのようにジャージ姿ではない普通の人が話しかけたことで、ちょっと緊張がほぐれる。ぼくは一緒に席に着くために、彼女の手を引く。それを見ていたお年寄りが「いいねぇ、若い人に手をつないでもらって」とひやかす。すると、さっきより足早になってぼくのほうへ近づいてくる。そして、さっさと窓から外の見える席に着くと、夕暮れの町に目をやり「ここはどうでしょうね、ずいぶん暗くなっちゃった。困ったわ……」と小さくため息をついている。彼女の隣の席には夕食が配られ、さっき声をかけてくれた家族さんがスプーンで食事介助をはじめている。外の景色から目を転じて、介助の様子をじっと見詰めはじめた彼女にも、「おまちどおさま」と、夕食が配られる。今度は「ありがとう」と礼を言うのだが、箸に手をつけない。表情が、思い詰めた様子から迷っているふうに変わっている。「お醤油を持ってきましょうか」と話しかけると、ぼくを見て首を横に振る。ずいぶん落ち着いた感じになっている。「そう、ゆっくり食べてね」と声をかけ、ぼくが立ち上がると、箸を手にもって食べはじめた。
この場面、誰が特別にケアしたというわけではない。ぼくや夜勤者、家族さん、他のお年寄り、いろんな人が、切れ切れのような言葉をかけて、食堂は夕食のにおいが充ちてきて、となりの席ではスプーンが優しい光を反射して、ゆったり座る椅子が脚の力を抜いて……。小さな数え切れないケアのかけらが、彼女のまわりに積み重なっていたのだと思う。上手な演技や説得がなくとも落ち着いたとき「たそがれ」が暖かい色に染まっているようだ。パッチング・ケアは相手を息苦しく包み込んでしまわない。小さなケアが、それぞれの意図を超えた模様をパッチングしている。こんなケアの光景をもっと大切にすることが、相手を理解や操作で翻弄しないケアになる。
(西川勝「ケアの弾性」、文部科学省科学研究費補助金基盤研究C‐1報告書『看護の臨床哲学的研究』所収)
鷲田 清一. 「待つ」ということ
鷲田:あれはまさに場の力ですよね。
水野:あれって、自分の力の及ばないところというか。自分だけじゃなくて、他者や、そこに存在しているもの、たまたまそこで起きる偶然だけじゃないすべてが影響を及ぼして、“わいわいがやがや”のなかで起こることを信じる力ってどういうものなのか。
鷲田:西川君は僕の元学生でもあるんですけど、そんな彼が教えてくれたのは、「その施設がいいか悪いか一発でわかるのは、大声を出しているひとがいるかいないかですよ」って。誰も大声を出してない施設はいいんだって。何かトラブルが起こったら、気づいたひとがすっとそばにいく。そういうことができている施設は大丈夫だって。
水野:ああ、そうなんですね。
鷲田:「なるほど!」と思って。街でもそうじゃないですか。あるいは道場とか、教会とか。この場所って、すごくクオリティー高いな、整っているなって思う場所ってありますよね。道場だったら、畳が荒っぽい使い方をしているのに、ちゃんと磨いてあって、つるつるしていたり。住宅街だったら、住民が自分の家だけじゃなしに、まわりもなんとなく掃除をしていたりすると、この街は大切にされているなってわかるじゃないですか。人々がその街を大切にしているかどうかは、その場所で積み重ねられてきた、繰り返されてきた、気遣いや思いやりでわかる。「この場所、力あるなぁ」って感じる。ひとりがどうこうじゃないんだなと、西川君の言葉から感じましたね。
水野:パッチング・ケアの話を聞いたときに、僕は歌も“場”的なものなんじゃないかって思うようになって。繰り返しになるんですが、自分は、自分というパーソナリティーからどうしても外れることができない。たとえば悲しみの状態にあるひとに向き合ったとき、僕という人間は悲しみの状態にないからこそ、そのひとを傷つけてしまったりする。限界があるなってなったときに、自分という人間ではなしに、その場の空気であるとか、そこで起きていることが、時間の力みたいなことも含めて、ゆるやかに解決していく。それができるのが歌なんじゃないかって。
水野:歌も結局パーソナリティーから離れていくので。たとえば、ちょっと話が複雑になっちゃうんですけど、演奏って複数のひとで同時にやるじゃないですか。ひとりの力でできないもので。しかも、同じ5人バンドで同じ曲を10回演奏しても、必ず毎回、違うものができていく。違う現象が起きていく。その時々でまったく違うものが生まれていく。その一連も場の力の話と通ずるなにかがあるんじゃないかなって。
鷲田:ライブで、「今日の観客いいな」って思うときないですか? なんかすごく乗せてくれるというか、気合を入れてくれるみたいな。
水野:ありますね。ちなみに、いきものがかりは路上ライブからスタートしたグループなんです。神奈川県の地元の駅でストリートライブをやっていました。
鷲田:あ、そうなんですか。
水野:ストリートライブって、場の空気を読むことから始まるんですよ。たとえば、立ち止まってくれたのが女子高生か、会社員の方かでもその場の空気がまったく違って。もっと言うと、お客さんが左側に集まっているか、右側に集まっているかでも変わる。
鷲田:えぇ!
水野:当時は高校生だったんですが、セットリストを組まないんですよ。オリジナル曲が5曲あったとして、演奏する順番は決めない。その場に合わせて「今の空気だったらこの曲だ」って。何も言わなくても目を合わせるだけでメンバー同士わかった。あれは今でも不思議な感覚なんですけれど、その時々のお客さんの雰囲気や集中度によって「次やるべきはこの曲」って体感でわかるというか。
鷲田:すごいなぁ、それは。でも、あるんでしょうね。路上ライブでもそうだけど、自分はお客さん、あるいはオーディエンスの力を借りるつもりでやっているわけじゃない。でも結果として、「今日の演奏はお客さんの力に助けられたな」って経験はある?
水野:すごくありますね。たとえば日本武道館ってあるじゃないですか。あれって、どのアーティストもそうだと思うんですが、デビュー前、必ずまわりのスタッフたちが「日本武道館までお前たちを行かせてあげたい」みたいなことを言うんですね。
鷲田:ビートルズの(笑)
水野:お世話になったラジオ局の方とかも「武道館でいきものがかりを観たいね」なんて言ってくれる。あの会場でライブをすることが成功のモデルみたいになっていて。とうの本人たちは呑気なもので「いや、武道館より地元の横浜アリーナのほうが憧れがあるな」なんて言ってたんですけれど(笑)でもね、いざ武道館のその日になったら、リハーサルでステージに立った時点で、空気が違う。スタッフがもう泣いているんですよ。「こいつらがついに武道館に立った…」って。
鷲田:はぁー!
水野:僕らは普通のライブのつもりでステージに立つんですけど、スタッフどころか、お客さんたちまで「ついに彼らが武道館に立った」って異様な空気になっていて。それで、「あぁ、ここは特別な場所なんだ」って。
鷲田:そのときは上手くいったんですか?
水野:上手くいきました。もうその空気に身をゆだねて演奏して。
自分の名前をはずしていく先に
水野:あと、もうひとつ思い出しました。いいライブになったときの記憶があって。信じてもらえないかもしれないんですけど、演奏中に寝てしまった瞬間があって。
鷲田:えぇ?
水野:横浜スタジアムでライブをやらせてもらったとき、夕暮れの時間帯にバラードの曲をやったんですね。アコースティックギターを2本並べて、3人で演奏していたんですけれど。スタジアムで野外だから、あまりに風が気持ちよくて。しかも高校生の頃からやっていた曲だったので、体が覚えていて、何も考えないでも演奏できちゃう曲なんですよ。で、曲の途中で明らかに意識を失っていたというか、寝ていて。
鷲田:ほぉー。
水野:でも、そのときの演奏、めちゃくちゃ褒められたんです。ボーカルの吉岡も「すごく歌いやすかった」みたいな。あれは何だったのか。自我を失うといいものになるのかなって。
鷲田:場が演奏するみたいな。すごい経験ですね。
水野:一瞬、自分じゃなくなるというか。場に一体化するってことなんですかね。演奏は続いているので。僕がどこまで読み解けたかわからないんですけど、『「待つ」ということ』の最後のほうに書かれていた、自分の文脈とかがいったん途切れて、期待もなくなって。自分という個の存在の人称以前にある世界に、身を任せるような状態。
鷲田:でもそのとき、それを聴いていたひとも同じような状況にあったかもしれないね。音に自分が乗せられて。てつがくカフェでも、不思議なくらいよく似たことがありました。いろんな意見があるなかで、だんだん話が煮詰まって、最後のほうでは、「これ誰の意見だったっけ?」って。つまり、「これは俺の意見か、他人の意見か」もわからなくなった。
水野:ああ、なるほど。
鷲田:そういうときはうまくいっているんです。誰が言い出した意見かわからないけど、みんながまるで自分のもののようにして、論をそれぞれ組み立てていくような結果になる。誰のものかわからなくなるとか、匿名になることで、どうして普遍になっていくのか。文化のおもしろいところだなと思いますね。
水野:しかも誰のものでもなくなると、除外することも除外されることもなくなる。
鷲田:美術やファッションをやっているひとたちが、急に工芸のほうに傾いていかれることって結構あるんですね。工芸って無名のものじゃないですか。誰の作品ってことじゃない佇まいのものが前にある。やっぱり今日何度も話題になった「自分の名前を外していく」というのが、クリエイションの世界にもあるのかなぁって思います。
水野:名があると、僕が僕であると、待ちきれない気がするんですよ。
鷲田:待ちきれない。
水野:待ちきれない。だけど、それが歌になると、待つことができる気がしていて。僕は、音楽って聴いてくれるひとが何を思うかがいちばん大事で、聴いてくれるひとの言葉を待つのが歌なんじゃないかと思ったんです。歌の前なら、そのひとだけしか知らない、そのひと自身も整理できてない気持ちをこぼすことができるというか。だから鷲田さんの本を読んで、「自分は待つために歌を書いているんじゃないか」ぐらいのことを思いました。
鷲田:『おもいでがまっている』も、「待つ」のふたつの面をよく見ていらっしゃるなと思いました。今おっしゃったような創造的な「待つ」と、自分を守るための「待つ」。そこがすごくうまくコントラストで描かれているなと。
「待つ」ことでしか、進まなかった人生がある。 25年前。私達から部屋と思い出を奪った男は老いて記憶を失くそうとしていた。風吹く部屋で誰かを待ち続けた、ある家族と男の物語。『おもいでがまっている』清志まれ
水野:そうでしょうか。
鷲田:古い思い出とか出来事、それを忘れまじとして、その再現をひたすら待つ。つまり、自分がこれまで生きる支えにしてきた物語に、最後まで固執する。一方で、自分のものではないものが、向こうからやってくるのを待つような待ち方。自分を開く、あるいは未知のものに向かって開く、訪れを待つという「待つ」。この両者が、すごくうまくコントラストで描かれているなと思いましたね。
水野:本当に今日はありがとうございました。いやぁ…どうまとめるか。まとめなくていいのかもしれない。
鷲田:まとめはいらないですよ。
水野:てつがくカフェで大事にされていることかもしれないけれど、終わったあとにまたいろいろ考えてしまいます。
鷲田:そうなんですよ。答えが出ないからね。来たときと違う宿題を持って帰る。僕は哲学カフェに大事なのは終わってからだと思う。それぞれが「Alone」の世界に戻って、どんなふうにそれを次の一歩のきっかけにするのか。ひとりひとり何を持って帰るかが大事だと思っています。
文・編集: 井出美緒、水野良樹 撮影:濱田英明 メイク:内藤歩
監修:HIROBA 協力:せんだいメディアテーク