対談Q ゆっきゅん(DIVA・作詞家)第1回

ひとは、何から自己肯定を始められるのか。

“騎手”にされないように

ゆっきゅん
1995年、岡山県生まれ。青山学院大学文学研究科比較芸術専攻修了。サントラ系アヴァンポップユニット・電影と少年CQとしてのライブを中心に、個人では映画やJ-POP歌姫にまつわる執筆、演技、トークなど活動の幅を広げる。2021年5月よりセルフプロデュースでのソロプロジェクト・DIVA Projectを始動した。いちばん好きな歌姫は浜崎あゆみと大森靖子。修士論文のテーマは少女マンガ実写化映画の変遷。

水野:「自己肯定をする」ということを発信されている方の多くは、ご自身が否定されてきたことに対する反発心が強いように思うのですが、ゆっきゅんさんの場合、そうではなさそうな気がします。

ゆっきゅん:やっぱり鋭いですね。こういう仕事をしているから、どう育ってきたかなどを言葉にしなければならない機会が多くて。それで振り返ってみると、身近なひとにあまり否定されてこなかったなと。幼い頃から、まわりと同じものが好きなわけではなく、いろんな点ではみ出している感じだったけれど、それをとやかく言われるわけでもなく、ただそのままいられた。家族に、人と違っていることを褒められることも否定されることも特になかったので、肯定されていたんだと思います。

水野:はい、はい。

ゆっきゅん:みんな、どこかで心が折れるタイミングがあるから。私にもそういう部分はあるし、気持ちはわかるんです。だけど、活動を10年くらいやっているなかで、わりと初期から、「まわりは自分ほど強くはないんだ」と感じていて。それなら自分は多分、肯定の大きな力みたいなものがあるから、それをファンの方とか友人とか、他者のために使おうって思ったんですよね。自分ができることを考えていたら、こうなっていました。

水野:いい意味で肩の力が抜けているなと感じます。

ゆっきゅん:本当ですか。私としてはすごく力が入ってしまっている感覚で。

水野:たとえば、「肯定」がキーワードとして使われるタイプの方って、「照らしてやろう」というパワーが強すぎてしまって、それはそれで眩しすぎるパターンがあるじゃないですか。でもゆっきゅんさんは、「私は勝手に咲いているけど。あなたたちも咲いたら?」という感じがある。それがどこか心地よさに繋がっているのかなって。

ゆっきゅん:ありがとうございます。多分、眩しすぎるひとは、少しだけやりすぎてしまっているところがあるのかも。私の場合、「自己肯定」というキーワードを言われるようになって、「あれ?」って思うときと、素直に「はい」と言えるときがあるんです。「あれ?」って思うのは、「自分最高」とか「自分大好き」とか、そういうニュアンスのとき。私は結構ぶち上げ系の音なので、みなさんからそう捉えられることもわかるんですけどね。

水野:それが悪いわけでもないですし。

ゆっきゅん:でも、自分にとって「自己肯定」とは、自分を無理に好きになるとか、ずっと自信満々な状態でいるとか、そういうことではなくて。全然ダメなときや、うまくできないときも、「それも自分なんだ」と認めるみたいなことで。つまり、ただそこに在るものとして受け入れて、否定しないことなので、自然なんですよ。

水野:変に火をつけずに、自然な温度感ですよね。でもナチュラルで在ろうとすることには、多少の意思が必要で。

ゆっきゅん:だから“旗手”にされないように気をつけています。

水野:されがちですよね。「代弁してくれた」とか。

ゆっきゅん:いつもすり抜けちゃうんですよ。何か期待されている人物像があるのも、「こういうことを言ってほしい」みたいな希望も、わかるけれど。来るたびにスッと避ける。かといって、「違う!」みたいなこともしたくなくて。私のことを慎重に見てくれているひとだけ、「あ、ゆっきゅんまた避けているな」って気づいていると思います。どこか私みたいなひとは、格言めいたことを求められるけれど。

水野:すると虚像じみてくるというか。

ゆっきゅん:そういうのは、口を動かすことに疲れた50年後ぐらいでいいかなって(笑)。今はまだ時間もあるし、人間でいたいし。だから、期待されるものをすり抜けながら、やりたいことをやっていますね。結局、やりたいことをやるのがいちばん大事だと思う。当たり前すぎるけれど。

水野:いやいや、大事だと思います。

ゆっきゅん:たとえば、ピンクでキラキラしたものとかDIVA的なものが好きなひとだけが、私を見てくれているわけではなくて。私が自分で選んだやりたいことをやっている姿を見て、「元気が出た」とか、「自分を肯定できた」とか言ってくれている部分が大きい。だからこそ、見ていて清々しい感じで在りたいんです。

水野:そう、湿っぽさを感じないんですよ。多分、社会がゆっきゅんさんに「自己肯定」の期待をしてしまうのは、「自己肯定にはパワーが必要である」と思っているから。反発心や負の力が必要だと勝手に思い込んでいて、派手なひとやパワーを持っているひとに、ひとつのイメージを背負ってもらおうとする。みんなが言えないことを言ってもらおうとする。でも、自己肯定ってもっと自然なことで。

ゆっきゅん:私にとっては0地点という感じ。

水野:その0地点の状態でいること自体が励ましになるんですよね。

「なんだ、みんなわかってんだ!」

水野:ゆっきゅんさんにとって、作品に救われるというのはどういう感覚ですか?

ゆっきゅん:自分のなかで感じていたけれど、誰も言ってくれなかったこと、輝かしくない日常、後ろめたい気持ち、そういうものが他者の言葉や歌によって、キラッって見える感覚ですかね。いい歌になって聴こえると、人生がよりおもしろく思えるというか。私は「共感」とかも普通に好きなんです。

水野:そうなんですか。

ゆっきゅん:共感できないものがたくさんあったからこそ。自分の作品も、みんなが共感できるかはわからないけれど、1000人に1人でも、「これじゃなきゃダメだ」というものになったらいいなといつも思うんです。自分に覚えのある感情が描かれていて、「これは私のための作品だ」と感じると、大切なものになっていきますね。

水野:どうして他者の言葉になるといいんでしょうね。

ゆっきゅん:「これを思っているひとが、他にもいるんだ!」という感覚が大きいと思います。たとえば、自分は1曲目の「DIVA ME」という歌で、完全に自分の日常、すごく個人的な景色を歌詞に書いたんですね。初っ端だから知ってもらわないといけないし、自己紹介ソングのような気持ちで。そうしたら、「わかる!」って多くのひとに言われて。「なんだ、みんなわかってんだ!」って(笑)。

水野:「わかっているなら言ってよ!」と。

ゆっきゅん:そうそう。その「わかる!」で私が肯定された部分が大きくて。「このひとがわかってくれている」とか、「自分だけじゃないんだ」とか、そう思えるから他者の言葉や表現を探しているところはありますね。

孤独は、個性みたいなもの

水野:他者はどう見えていますか? 寂しさってあるものですか?

ゆっきゅん:ない。

水野:ないんですね。

ゆっきゅん:寂しさってどういう寂しさですか? わかってくれないとか?

水野:僕は基本、「人間と人間はわかりあえない」という結論があります。だけど、僕を好きになってくれなくても、曲を好きになってくれる可能性はある。つまり、自分が曲を作るときは、自分が「よい」と思ってメロディーや歌詞を書いているわけじゃないですか。その自分が「よい」と思ったものを一緒に眺めることができるというのは、どこか繋がっているということなんじゃないかという希望もあるんですよ。

ゆっきゅん:はい、はい。

水野:いきものがかりでいえば、自分が「よい」と思ったものを、名前も顔も知らない不特定多数のひとが聴いてくださっている。それによって、「人間と人間はわかりあえない」という寂しさを少し超えられる。そこにずっと僕が曲を作る動機があるんです。結局、自分が死んだあとに生まれたひとには出会えないし、同じ時代に生きていたとしても、仮に自分を殺そうとするひとがいたら、そのひとを愛するのはなかなか困難じゃないですか。

ゆっきゅん:うん。

水野:ひとりの人間としては、そこを超えられない。その感覚を言葉にするなら「寂しさ」だなと思っていて。そして、その「寂しさ」を超える意味での創作物というところがあるんですよね。

ゆっきゅん:私はそもそもあまり寂しがり屋ではなくて。さらに、自分のなかでは孤独と寂しさがそんなに結びついていないというか、ちょっと違うんです。孤独は、個性みたいなもの。自分が自分でしかない、どうしてもこうなってしまう、変えられない部分。他者と共有できない部分。そういうものを抱えているのもあって、昔から、「人間と人間はわかりあえない」ということを了承しすぎているところがあるのだと思います。

水野:ああー。

ゆっきゅん:それは自分がやりたいことをやったり、着たい服を着たり、自分のままでいるために必要な考えでもあって。「自分は自分、他人は他人、わかりあえるわけではない」というのを、どこかで強くインストールされているような感じですね。でも、それって冷たいですよね。

水野:見え方によってはそうかもしれないです。でも、みんなその冷たさを持てないんですよ。だから、ゆっきゅんさんは精神が自立しているんだろうなって。もしくは自律している。僕もそうだけど、どうしても人間は関係のなかで自分を見るところがあるじゃないですか。クラスでの自分、仕事場での自分、家族での自分、周囲の登場人物によって作り上げられる自分がある。ともすれば、それがアイデンティティになってしまう場合もあって。

ゆっきゅん:はい、はい。

水野:すると、ある関係がトラブルで崩れたとき、自分自身も崩れてしまって苦しくなる。個が自立していれば、そんなに変わらない気がするんですけど、みんな、確かな個を作るのが難しいんだと思います。でも、ゆっきゅんさんの佇まいやお話からは、それを達成しているように感じられて。もちろんそれを作り上げるまでに、僕の知らないいろんなことがあっただろうけれど。それは冷たさにも見える一方、頼もしさでもあるなと思います。

ゆっきゅん:私は生きているなかでも、作品に対しても、「優しい」とか言われたりするけれど、どこかで他者への期待のなさもあるんだと思います。「自分は自分だから」という個人主義なところがあるから、やっていけている部分は大きいんだろうなと思いますね。

文・編集:井出美緒、水野良樹
撮影:谷本将典
メイク:枝村香織
監修:HIROBA

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