『Samsung SSD CREATOR’S NOTE』はしもとみお

作るというより、大いなる生命から魂の一部を分けてもらうような気持ち。

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水野:今回のゲストは、彫刻家のはしもとみおさんです。

はしもとみお
彫刻家。1980年兵庫県生まれ。東京造形大学美術学部彫刻専攻、愛知県立芸術大学美術研究科彫刻専攻卒業。三重県北部の古い民家にアトリエを構え、動物たちのそのままの姿形を木彫りにする。材料は、クスノキ。実際にこの世界に生きている、または生きていた子をモデルにし、その子にもう一度出逢えるような彫刻を目指している。各地の美術館で、木彫りの動物たちに間近で触れ合える展覧会を開催するほか、世界各地からご依頼を受けての動物たちの肖像制作、フィギュアやオブジェの原型制作や動物たちのイラスト等も手がける。

生命とは“正しくないこと”

水野:思わず、「この子のお名前は?」と訊きたくなる猫ちゃんの彫刻も持ってきてくださいました。

はしもと:マロンちゃんと言います。

水野:マロンちゃん。はしもとさんは最初、どのように彫刻に興味を持たれたのでしょうか。

はしもと:興味を持ったというより、導かれた感覚があります。もともと動物が好きで、生き物に関わる仕事がしたくて、獣医を目指していたんです。でも15歳のとき、阪神淡路大震災に遭いまして。震災の日、鳥や猫など動物たちの声がない朝を迎えたんですね。音が消えてしまった。そのときに、「生命はある日、突然に失われることがあるんだ。私が獣医だったとしたら、何ができただろう」と改めて考えました。

水野:はい。

はしもと:そして私は、生きているもの、死んでしまったもの、すべて含めて生き物に関わる仕事がしたいと思ったんですね。そんなときに、レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図で、美しい動物たちの姿を見て。「ああ、これを残す仕事ができたら、なんて素敵だろう」と、導かれるように直感で彫刻の道へ進みました。

水野:とはいえ、獣医として生死に向き合うのとはまったく異なりますよね。スッと方向転換できましたか?

はしもと:動物たちが私の目の前に現れたとき、メッセージをいただくような気持ちがしたんです。「僕は絵になるよ」とか、「僕は彫刻になるよ」とか。だから、「いつか私は生命を形に残す仕事をするのだろう」という決まった未来がある感覚で。何の苦も迷いも無く、三浪して美術大学に進み、淡々と訓練を重ねていきました。

水野:マロンちゃん、物質としては彫刻という“もの”じゃないですか。だけど、生きているように感じる。どうして無機物との境を超えられるのですか?

はしもと:獣医を目指していたこともあり、「生命とは何か」と昔からずーっと考えてきたんですけど、それは“正しくないこと”なのかなと。正確に形を写すだけの型取りをしても、実は生命感ってまったく生まれなくて。ひとの手が入ることで、たくさんの失敗をするじゃないですか。私も作る途中でミスをする。そういう人間味に、生命の神秘のようなものが宿っていく気がします。説明が難しいのですが、単なるコピーではないんです。

水野:もし僕が彫刻をするとなったら、やっぱり綺麗で完璧なコピーを追いかけてしまいそうです。

はしもと:美術の神髄でもあるんですけど、うまく作ろうとしないことが大事で。人間も生きていると、苦しいことや間違ったことを解決しようとあくせくするなかにこそ、生命が輝く瞬間がある。美術もまったく一緒なんですよね。だから、失敗を恐れずチャレンジしていく。常に挑戦と決断の繰り返しです。

水野:それはものすごく難しいですね。もちろん作品としてうまくないといけない。でも、「うまい」だけでは表現できない人間味が必要。その矛盾とどのように折り合いを?

はしもと:訓練して膨大なスキルを身につけたあと、何を捨てていくかが大事ですね。思い切って、「これはいらない」と削ぎ落すことで、研ぎ澄まされた美しさにたどり着く気がします。

水野:捨てるときは怖くないんですか?

はしもと:そもそも彫刻は彫って捨てていく仕事なので。断捨離のプロフェッショナルです(笑)。

水野:最初、木を削っていくときにもう完成は見えているのでしょうか。

はしもと:いや、その瞬間ごとに木が教えてくれる感覚です。ぞわっとするんです。

水野:自分の意思はないんですか?

はしもと:ほぼゼロです。「こう作ろう」と私が思うものはすべて却下されるので、すべてが自然の意思。たとえば、これまで膨大な数の動物たちを作ってきましたが、そのなかで1頭がナチュラルじゃない場合、気持ち悪さがすごいんですよね。創造主みたいな感覚が宿っていて、それが「NO」というので、絶対に間違えない。

水野:作れない時期もありましたか?

はしもと:もちろん。

水野:それがどこで変わったのでしょう。

はしもと:あるとき、溢れ出るように。スキルが溜まってきて、自分のなかでパーンッ!と弾けた瞬間、「ああ、これがナチュラルなんだ」と気づきました。“気持ちいい”という感覚に近いですね。この作品づくりが、ただただ気持ちいい。そうなったとき、初めて自然と繋がるというか。毎秒毎秒、「自分が作っているこの木は生命である」と思い込めるんです。

水野:それはたとえば、はしもとさんの作品に感銘を受けて、「弟子にしてください」という方がいた場合、教えられるものですか?

はしもと:反復練習の先にあるものなので、誰でもできます。ただただ地球の姿かたちを膨大にコピーしていく。それしかないと思いますね。

木と仲よしになりました

水野:木材にはクスノキを使われているんですよね。その理由は?

はしもと:クスノキは日本によく生えていて、大きく育つんですよ。下手したら根まわり10~20メートル。だから一木(いちぼく)で、木を継がなくても大きな彫刻を作ることができる。運慶や快慶の時代から使われてきました。あと、神聖な匂いがします。樟脳(しょうのう)の効果で虫もつきにくい。いろんないいことがあるので、神さまの木だと思って使っていますね。

水野:一木から彫るというのも、はしもとさんがおっしゃる「ナチュラル」に近い気がします。

はしもと:木を継ぐことでもひとつ、人間の意思が入りますよね。でも、もう今はどれだけ自分の意思が入ったとしても、木が教えてくれるようになったというか、木と仲よしになりました。素材と仲よいのがベストです。

水野:木と仲よしとはどんな感覚なのでしょう。

はしもと:友だちと仲よし、犬と仲よし、それと一緒で、木と仲よしなんです。自分を出そうとしすぎると、仲よしにはなれないですね。無に近い状態、ネガティブでもポジティブでもないリラックス状態であるときが、木と仲よくなるもっともよい精神状態だと思います。

水野:これまでいろんなひとにお話を伺ってきましたが、「作為ではない自然がいちばん」というところに行きつくんですよね。

はしもと:どのジャンルでも、最終的にはそこに行き着く気がしますね。そういえばピアニストの方がおもしろいお話をされていました。「歳を取ると、弾けなくなるものがあるけれど、それは自然の意思で“この技術は、もういらない”と教えてくれているんだ。だから歳を取るのは悪くない」って。

水野:たしかに老いに自分の意思はないですもんね。自然なもの。

はしもと:そうやって自然にいらないものが削がれたことで、自分の理想とするいい演奏になったんですって。それを聞いて、歳を取るのが楽しみになりました。私も多分、いらない技術がまだまだ残っているので、どんどん失われていくんだろうなと思います。

水野:はしもとさん個人のよろこびは、どこに出てくるものですか?

はしもと:制作中が最高潮に楽しいです。座禅と一緒で、自分の生命が宇宙と一体化しているようなナチュラルな気持ちよさがあります。逆に、できあがったものにはあまり興味がありません。その作品が誰にも受け入れられなかったとしても、その子が素晴らしいことには変わりがないと思いますし。

水野:制作を奪われたらきついですか?

はしもと:生きている心地がしません。たとえば、仕事で海外に行って、展示会の設営などをすると数日は作業ができないじゃないですか。すると、すごくぞわぞわするんです。作る喜びは脳の栄養源に近いので、それがないと枯渇してしまいます。脳が栄養失調状態。

水野:僕ははしもとさんのような状態にはなれていませんが、ひと時だけそこに行く瞬間はあって。まわりから心配されるぐらい、ずっと作り続けていて忙しかった時期があるんですけど、メンタルはものすごく安定していたんですよ。作り続けることで、自分をまとめていくというか、大きなうねりのなかに自分が入っていく。

はしもと:やっぱりそうですよね。自分の生命がすごくキラキラと輝いている感覚があります。

生と死の世界線は同じ

水野:今、目の前にあるこの作品は、我々と同じ“生きる”ということを携えている気がしますね。

はしもと:そう、私も作っているという感覚がなくて。「やっと来てくれたね」というか、大いなる生命から魂の一部を分けてもらうような気持ちなんです。

水野:はしもとさんにとって、生と死にはどういう区別があるのでしょうか。

はしもと:ないんですよね。阪神淡路大震災で15秒間、揺れ続けたとき、私のなかで生と死のリミッターが外れてしまった。亡くなってしまった方の命も私の命も一緒。世界線が同じになった。そこからはもう、「今できることをただただやる」という人生なんですよね。死に対する恐怖もほぼなくて。夜寝るときに、「ああ、今日も生きていてよかったなぁ」とだけ思います。

水野:はしもとさんの場合、死のラインが消滅してしまうような出来事があったからこそ、ものづくりの道へ進んだのかな。

はしもと:そうですね。そして制作のなかでたくさん死を経験するんですよ。たとえば、「この子を彫ろう」って決めたら、その動物が翌日に死んでしまったり。木に刀を入れたその日に亡くなったり。現実で不思議なことが起こってくる。そういう瞬間にあうたび、何か大きな使命を与えられている気がして、ひと時も休めないというか。「今日も残さなければ」という気持ちになります。

水野:僕は犬を飼っていて、もうすぐ10歳になるのですが、そろそろ別れを覚悟しているというか。ある程度は、意識し始めているんです。それが僕にとっても、息子にとっても、どういう出来事になるかずっと考えているし。なるべく意味のあるものであってほしい。でも、はしもとさんに、「僕の犬を彫ってほしい」と言ってしまうと思うんです。そして、その実存が出てきたとき、それは僕にとってどういうことなんだろうか、と。

はしもと:私も犬を飼っていて。亡くなった先代の犬の等身大彫刻が残っているのですが、見たとき、触れたとき、「おかえり」という感覚になります。古代の彫刻って、そうやって生と死が濃密に絡まっていて、祈りのようなものとして生まれたんじゃないかな。だから、思ったより悲しいことではないですよ。

水野:ずっとその子はいるんですね。はしもとさんにはこれから、変化は訪れると思いますか?

はしもと:はい。たとえば、今年に入ってから龍を彫るようになりました。今までは唯物論というか、現実に形あるもの、見えるものに執着していたんですけど。夢で見たものとか、雲の形とか、現世にないものとか、そういうものも彫りたいと思うようになって。

水野:やがて「感情を彫り出す」みたいなところにたどり着くんですかね。

はしもと:どうなるんでしょうね。彫刻の面のことをポリゴンというのですが、多分、ローポリゴンになっていく気がしています。今はものすごい多面体で作っているけれど、それが単純化されていく。そのほうが気持ちがいいというか。だから解像度の高いものより、低いもののほうにより愛を感じるようになりつつありますね。

水野:人物画を描くイラストレーターさんにお話を伺ったとき、「いちばんうまくいったときは線が少ない」っておっしゃっていたんですよ。

はしもと:そうですね。シンプルになっていく。私は音楽もすごく好きで、4歳の頃からバイオリンを弾いていたんですけど、まさに反復練習しかない世界で。バッハの曲をずーっと反復していたとき、「1音でも間違えるとすごくダサくなる」という体験をしたんです。あの感覚がずっと残っていて。

水野:ああー、なるほど。

はしもと:子どもでもわかるほどに、譜面に残されている音が削ぎ落され、研ぎ澄まされている。究極の美。そういうものに彫刻でたどり着きたいなと思っています。

水野:では最後に、これからクリエイターを目指すひとたちにメッセージをひと言お願いします。

はしもと:批判を受けたときがスタートだと思います。最初は褒められても、「君の作品はあまりよくない」とかいろんなひとに言われる。そこで多くのひとがやめてしまう。でも、それは作品で応えて乗り越えていくチャンスだと捉えてほしいです。

水野:はい、はい。

はしもと:とくに彫刻という肉体的にも厳しい世界の人間は、どんな批判を受けても、「それでも続ける」という強さを持ち続けてほしい。それが積み重なって、「必ず次もマスターピースが生まれる」という絶対的な自信に繋がっていくので。決して批判に負けないでください。

Samsung SSD CREATOR’S NOTE 公式インスタグラムはこちらから。

文・編集:井出美緒、水野良樹
写真:谷本将典
メイク:内藤歩
番組:J-WAVE『Samsung SSD CREATOR'S NOTE』
毎週土曜夜21時放送
https://www.j-wave.co.jp/or

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