実と虚の間にあるものに興味がある
自分で見た、ヨークの力、場所の力
水野:では、「きく」ということを考えたとき、意識することの第二段階のお話に行きましょうか。
塩田:二段階目は「“きく”と“みる”は両翼」だということ。つまり“現場に行って、見て感じる”ということですね。たとえば『罪の声』の場合、イギリスへ取材に行ったんですけれど、最初はシェフィールドという街ですべてを完結する予定だったんです。でも行く前に、「シェフィールドは絵になりにくいので、ヨークにも行った方がいいですよ」って、シェフィールド大学を出たひとに聞いたんですよ。
水野:はい。
塩田:そして実際、シェフィールドに行ったら、「これはラストシーンではないな」という感覚があって。ヨークに行った瞬間に、「あ、ここだ!」と。で、最初は対面で話を聞くという設定だったのですが、横並びに歩いていく設定にして、並行にしようと。すると、話す側は目を見なくていいし、自分のペースに持っていけるし、より狡猾さを表現できる。それに気づけたのはヨークに行ったからなんです。
水野:ヨークの景色を見て、対面じゃなく並行して歩くんだと気づく。今、自然にお話されていましたけど、この飛躍はすごいです。
塩田:『地球の歩き方』を持っていって、ヨークの地図を見ながら、1年半の多岐にわたる事件のポイントを「この風景のときにこれを話す」と、メモして作っていきました。それはやっぱり実際に見ないとできなかったことですね。
水野:でも、たとえ他のひとが塩田さんと同じようにヨークに行って、同じ情報を見ても、同じ気づきにはたどり着けないし、物語に昇華できないと思うんですよ。
塩田:それはやっぱり、追い詰められていたから(笑)。当時、まったく売れていなくて。もちろん自費で行くんですけれど、もう3泊5日が用意できるギリギリだったんですよ。ロンドンの安宿に泊まって、編集者からも「『罪の声』でダメだったら、本当にキツいですよ」と言われていて。その上でシェフィールド行ったとき、「これじゃダメだ」という感覚があり、ヨークでは「あぁそうか」と思えたんですよね。物語の絵は頭のなかでずっと動いていて、普通の街を歩いていても間が持たなかったけれど、ヨークは違った。
水野:バチっとハマったんですね。
塩田:はい、景色がそれぞれに点在しているんですよ。それはね、自分で見た、ヨークの力、場所の力。
歴史のなかの結び目に気づくかどうか
水野:今までのお話を少し乱暴にまとめると、大事なのはちゃんと準備して、聞いて、目で見て、体感すること。でも繰り返しになりますが、これっていろんなひとが言っていることだけれど、みんな塩田さんみたいにはなれないと思うんですよ。「きく」とき、相手に言葉を起こしてもらうことも大事だけれど、そのこぼれてきたものをどう読み取れるか、どう意味を見出せるかが、実はポイントで、塩田さんにしかできないことなのかなって。
塩田:それは「聞く」から「聴く」への変換と同じように、「見る」から「視る」への変換がなされているか、というところも大事だなと思いますね。たとえば、小石がぽんと在って、これをデッサンするとなったとき、いきなり表面的な傷を書くのか。それとも、「果たしてこの石は、ここに運ばれてくるまでにどれだけの歴史があったのだろうか」とたどるのか。たくさん視るべき点があるんですよね。
水野:はい、はい。
塩田:さらに、川の流れを考える。次は川に行って、その冷たさを知る。そういう形でそれぞれに節目が出てくるんです。そういう歴史のなかの結び目に気づくかどうか。感覚的に「ここが結び目だぞ」ってわかるようになってくるんですよね。
水野:たとえば、その小石の向こうの時間まで一枚の写真で表現する、という場合もあれば、塩田さんのようにそれを物語化していく場合もあって。アウトプットの形は違うけれど、ひとつの存在からそれ以上のものを想像するという点では同じなんですよね。存在がそこに成り立っている過程であったり、背景であったり。それを想像できるかどうかの分かれ目って何でしょうね。多分みんなそこで悩んでいる気がする。
「取材」と「構想」でそれぞれ得られるもの
塩田:それが「聞く」ということを考えたとき、意識することの第三段階なのかなと思います。第一段階は「話してもらわなきゃいけない」という前提。第二段階は「“きく”と“みる”は両翼」だということ。そして第三段階は「“あいだ”にあるものを捉える」こと。
水野:“あいだ”にあるもの。
塩田:僕の小説の看板を大きくあげると、「取材」と「構想」なんです。それぞれで何を得られるか、メモしてきました。取材によって実(じつ)が得られて、構想によって虚を作る。取材によって、人間とは、社会とは、という面を浮き彫りにし、普遍性を獲得できる。構想によって、大衆性と親しみやすさを生み出せる。取材によって、いろんなひとに力を借りて、自分の頭で考えただけではない深みが出る。構想によって軽快さを作る。
さらに、取材は古典に通ずるけれど、構想は流行に敏感である。取材によって得られたものは、普遍性に繋がるため、読み継がれるものになる。構想によって得られたものは、売り上げになる。そして、物語のテーマ、ストーリー、キャラクターという3本柱があったら、取材によってテーマを深めることができて、構想によってストーリーとキャラクターをおもしろくしていく。
ただ、取材ばかりに偏ってしまうと、難解なものになってしまう。逆に、構想ばかりに行くと、浅薄なものになってしまう。だから「“あいだ”にあるものを捉える」ことが大事なんです。
水野:「取材」と「構想」って、どこか矛盾しているというか、違うベクトルを向いているじゃないですか。でも、急に自分の話をして恐縮ですが、矛盾したまま統一性を持たせて、それを成立させたとき、いちばんいいものができるんですよね。
塩田:やっぱりそうなんですね。
水野:簡単に言えば、アップテンポの激しい曲でストレートにいくと、楽しくなる。だけど、アップテンポで激しいのに、なんか泣けてくるというのがいい。バラードでストレートにいくと、静かに心が落ち着く。でも、どこかエモくて感情的になって、なんなら殺気を帯びてくるようなものが良いロックバラードだったりする。そうやって矛盾するものが共存したとき、エンタメはよくなるんだと、なんとなく勘としてあって。塩田さんもまさに、ご自身のなかであえて矛盾をいくつも生み出して、それをまとめあげようとされているんじゃないかなと。
塩田:おっしゃるとおり、取材と構想って対比関係にあるんですよね。その間にあるものがおもしろい。実と虚のあいだにあるものに興味があるんですよね。だから『罪の声』という作品を書きましたし、「“あいだ”にあるものを捉える」と意識すると、言われたとおり必然的に振れ幅の大きな作品になるんですよ。
そして、両方が見えているという状態が、実はいちばん真理に近いんじゃないかなって。野田弘志先生もやっぱり「真理に近づきたい」とおっしゃっていて。僕はまったく先生には及ばない創作者ですが、そこにすごく共感しました。何のために本質に近づきたいかというと、やっぱり真理に近づきたいんです。
文・編集:井出美緒、水野良樹
撮影:濱田英明
ヘアメイク:枝村香織
監修:HIROBA
協力:ザ・ホテル青龍 京都清水
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