AFTER TALK with 糸井重里

やっぱり糸井さんに会いに行った

こちらは旧HIROBA公式サイトで2019年に公開されていた記事です。

やっぱり糸井さんに会いに行った。

とても勝手なものだなと思う。
こちらから聞きたいことがあるときだけ、ドアを叩く。

放牧前もそうだった。

阿久悠さんについて学んでいるときも、そうだった。

いつも糸井さんの顔を見ると、「あ、すみません、また来てしまいました」から始める。糸井さんは再び押しかけてきた水野に、いつも何か言葉をかけてくれながら、たいがい笑っている。こちらは(一応、本当に)恐縮しているので、ただ頭を下げるばかりだ。だが、ペコペコ頭を下げてばかりいるので、糸井さんが出会い頭で何を言ってくれたのか、実はちゃんと聞こえていない。「今日はどんなことを聞こうかな」と、自分の都合のことばかり考えている。

大変失礼なやつだなと思うのだけれど、おそらくその魂胆というか、図々しさを、隠しきれるような相手ではない。糸井さんには、十中八九、見透かされている。今回も対談の終わりに差しかかった頃に一言、投げられた。

「あなたは弟の役をやりたいんじゃない?」

草野球をやろうとみんなで集まったら、なぜか参加している年の離れた弟。野球のルールもいまいちわかっていないし、そもそも体が小さいから兄さんたちに、まともについていけるわけがない。完全な足手まといなのだけれど、本人は年上に交じって、文字通り、少し背伸びをした遊びができることが、楽しくて仕方ない。はしゃいでしまって仕方ない。それをみて、兄さん連中は「しょうがないなぁ、こいつは」となかば諦め、受け入れる。

そんな弟の役を、やりたいのではないか。隙をみせながら、自分の甘さを露呈しながら、年長者に、経験者に、賢人に、強者に。それでもかまってもらう。教えてもらう。遊んでもらう。向き合ってもらう。そこで、なにかを学びとる。気づく。あわよくば盗む。そんな、できもしない野心まで抱く。

こうやって冷静に書いていると、本当に申し訳なくなってくるが、まさにその通りで、糸井さんのところを訪ねているのも、それ、そのものだ。頷くしかないから「まさにまさに」なんて調子よく言っていると、糸井さんはさらっと、だがピシャリと、言った。

「僕はお兄さん役というか……お父さん役だけれどね」

ぐうの音もでない。もう、この際、ちょっと聞いてみたい、ぐうの音。はい、おっしゃるとおりです。甘えてしまって、すみません…。

放牧前に、自分は、ずいぶんしっかりと悩んでいた。ひとりでも多くのひとの心に触れられるような歌をつくりたい。その思いでグループを続けてきた。歌を書いてきた。そのためには、自分という書き手の存在、主義主張、思い入れ…それらが歌を縛ってしまうことを避けなければならない。

それでは歌が小さく、狭く、なってしまう。わかりあえるひとたちにだけにしか、届かないものになってしまう。わかりあえないひとたちにこそ、届くものを。そのためには、自分の存在を歌から消さなければいけないんじゃないか。その方法論が暫定的な答えであり、その時点での“行き止まり”だった。自分“で”表現して、自分“を”表現しない。どこか禅問答のような袋小路のなかで、あがいていた。いや、“いた”と過去形にするのはまだ早い。少なからず、今もそのなかにいる。しかし、少し前には進んでいる。

その時々で悩み果てて、なにかと理由をつけて糸井さんのもとを訪ねては、会話に付き合ってもらっていると糸井さんは決定打になるような言葉をさらっと、でも決まって静かに、すっと言う。

「あなた、だれ」のないものは、気持ち悪いんです。
(ほぼ日刊イトイ新聞 「阿久悠さんのこと(2017年)」より)

主格がないことの不自然さ。俯瞰になろうとしすぎるあまり、見失ってしまう、自分の足場。悩みの池で、知らず知らずのうちに溺れていて、浮いていた足。あがいていたところに、すっと差し出される小枝。いや、ちゃんとした竿だった。その竿をつかんで、もはやわからなくなっていた上下左右を捉え、池から顔をだして、頭を振り、息を吸い、目を開くと、どうやら池はどこかにつながっているらしい。その竿に出会えたことで、思考は悩みという螺旋を抜け出して、前に進む。

父は子より、背丈がある。少し上の方から見て、指針となるようなことを、すっと与える。与えられた竿を、振り回しながら、それなりに考えた。「あなた、だれ」が自分であること。それを宣言することから逃げないことにした。

それを言ってしまうと、急に、ぼんやりとしていた他者の輪郭もみえてくる。自分とは異なる「あなた、だれ」が、すぐとなりにいること。ずっと遠くにもいること。その、とても当たり前のことに気づいていく。

異なる「あなた、だれ」と僕は生きている。

HIROBAをつくることにした。
僕が僕であること。自分が自分であること。そんなすでに前提である当たり前のことを叫ぶよりも、むしろ「場」をつくることが必要に思えたからだ。見晴らしのいい広場に主格である「僕」は立っている。

その男が、誰かと考え、誰かとつながり、誰かとつくる。

そんな「場」が欲しい。
ならば、自分でつくりだす。

家庭料理っていうのは、究極の料理だと思うんですよ

(HIROBA「HIROBA TALK 水野良樹×糸井重里(2019年4月掲載)」より)

なぜ「ほぼ日」が愛される「場」になったのか。HIROBAも愛される「場」にしたい。そんなもう100回以上聞かれてきたであろう定型質問を、さも考えてきたかのように無邪気に、糸井さんの前に差し出した。これがダメな質問であることは、わかっているつもりでは、いる。まさに弟。あるいは、子。

糸井さんは、「ほぼ日」の成り立ちから静かに話を始めて、そのまま思いあまって、HIROBAの主旨まで話し始めてしまっていた。水野くんがはじめたことはこういうことなんじゃないかな?と、言いながら、ぜんぶ解説してしまっている。いちいち、正しい。会話ははずんでいるように見えるけれど、こちらはかなわないなと、思っている。大きなホームランを見せられて、はしゃぐ、子供のように。

そして。やがて糸井さんとの会話は、一言の、実にすっきりとした、でも厚みや弾力のある、単語にたどりつく。わりと、いつも、そうだ。

「家庭料理」

「場」が生み出す自由さ、寛容さ、それによって「内容」の魅力が豊かになる、かたち。その典型的な例であって、とっても身近でわかりやすい例。その「場」は愛されていると、より強度が増す。豊かさが増す。愛情が冷え切った家庭の「家庭料理」も考えられるわけで、それはどんなに「内容」が美味しくても、なかなか積極的に食べたいと思えない。つまり繰り返すが、その典型的な例であって、とっても身近でわかりやすい例。

制限は自分で自由につくりだせる。ルールは外から押し付けられるものではなく、生み出すものだ。味付けの塩梅、食器の選定、材料費のバランス、招待状を誰に送るか。

そして「あなた、だれ」がはっきりしている。家庭の食卓に並ぶ顔は、少なくとも匿名ではない。たとえ嫌いなやつはいても、名前と顔は必ず、ある。差し替え可能な人格はそこにはない。

繰り返す。その典型的な例であって、とっても身近でわかりやすい例。

そして、それはHIROBAの在り様として、イメージするべきことの、いくつかだ。

良い「場」であるべきだ。「場」が、そこで生まれるモノやコトの多くを、規定していく。自分のヒトとしての魅力を磨くことばかりにとらわれていたけれど、丁寧に「場」をつくることも、とても大事なことじゃないか。愛される「場」であるべきだ。どんなに「場」が整備されていても、でもヒトが集まらなければ、なんの物語も始まらない。ふたつがそろって、すべてが始まる。

もう「ルール」や「フォーマット」は、そろそろ自分たちでつくりだしたり、すこし変化をさせたり、できないだろうか。それも、多くのひとにあてはまるものを、みんなで使うのではなく、自分にしかあてはまらないものを、自分でつくり、使うような、まさに家庭のなかでの、それのように。

好きになるでも、嫌いになるでも。名前をもって、顔をだして、話してみないか。それが安全に担保される。安心してできる。調子の良いときの家庭みたいな「場」。

糸井さんが一言、ボールを投げてくれたおかげで、頭のなかで、はずむように、考えがふくらんでいく。そろそろ、それを言葉にして話せるかも。というところで、だいたい時間が来て、糸井さんとの会話がおしまいになる。それもわりと、いつものことだ。

たぶん、もうあとは自分で考えなさい、ということかなと勝手に思っている。

糸井さんは笑っている。

「どうなったか、また教えてください」

最後に、そんなことを言うから、優しい。

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文・編集: YOSHIKI MIZUNO(2019.4)
撮影:Kayoko Yamamoto
メイク:Yumiko Sano

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